津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

八代・三齋周辺の女達

2009-03-18 11:25:30 | 歴史
 「丹羽亀之允言上之覚」に登場する三齋周辺の女達である。

一、千百石         中務殿御母儀(圓通院・清田主計鎮乗入道素閑女幾知)
一、千石           中務殿御内儀(恵照院・五条中納言菅原為適卿女鶴)
一、五百石         北ノ丸殿(立法院・加来兵左衛門女)
一、弐千石         おさん(三齋養女・源立院・加来佐左衛門女佐舞又ハ三、後行孝室)

一、弐百石         おすき
    右ハ甘利宮内女房
一、弐百石         おより
    右ハ吉田兼庵女房
一、百石           おひさ
    右ハ長岡河内娘
一、百石           おたら
    右ハ加来佐左衛門女房田中又助めひの由
一、弐百石         おせひ
    右ハ飛鳥井殿御娘御万様之御孫子御万様御養候而吉田殿御よめ被成候由

 圓通院と立法院は共に三齋の側室である。
圓通院は立孝(立允・中務)と、細川刑部家初代興孝の生母である。のちに宇土を離れたと見られ、墓は刑部家の墓所慈眼庵(泰勝寺近く)にある。      一般人の立ち入りは出来ないようで未見
立法院は家老長岡河内と共に、三齋の遺言として行孝とお三の結婚、また遺領並びに遺品の相続に努力している。お三と立法院は、姪-叔母の関係である。立法院とお三は小川の御茶屋に移り、宇土立藩の時期までここで過したのであろう。
この報告書が書かれた頃(正保三年三月)といえば、中務(細川立孝)の死後十ヶ月ほどである。恵照院はまだ八代にあったのだろうか。貞享五年七月京都で亡くなった。(66歳・墓所本能寺)

「おすき」は三齋の祐筆・甘利宮内の女房、夫と共に離国したものと思われる。
「おより」は吉田神社の隠居・兼庵の女房、兼庵とともに三齋のよき話し相手であったろうと思われるが、兼庵たちが三齋の遺骨を京都高桐院に納める為上洛したが、この時期京都へ帰ったのであろう。
「おひさ」は家老・長岡河内の娘、三齋死後の八代の仕置きに奔走した父親と共に、長崎
へ行ったのであろうか。
「おたら」がよく分からない。加来佐左衛門の女房であれば、お三の生母であろうか。
田中又助の姪とされるが、田中又助とは幽齋女伊也(吉田兼治)の娘(徳雲院)婿、田中半左衛門(長束大蔵大輔正家子)の子息である。ひょっとすると、吉田家の血が流れているのかもしれない。おたらがお三の生母であれば、お三にも吉田家の血が流れている事になる。そうすると三齋のお三に対する溺愛振りが理解できるのだが、真実やいかに。

「おひせ」については、3月10日のブログ「おひせ様」で書いた。
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細川家と二つの火鉢

2009-03-18 09:27:09 | 歴史
その一 
諸大名が登城した際、大広間には特別に「細川火鉢」というものが別に一つ置かれたという。三齋の時代に始まり、光尚の時代まで三代続いたが、綱利代に入り綱利幼少にて登城が途絶えた為、この時期に中止になったらしい。外様なれども外戚同様の特別の扱いがなされていた事が窺える。(綿考輯録・巻二十六から)

その二
目白の下屋敷(旧・高田老松町76番地--現・目白台1丁目1番地?)を切絵図でみると、細川邸の門前に鶴亀と名付けられた二本の老松が描かれている。鶴の松は見上げるように高く、亀の松はやや低くて平らであったそうだ。明治5年、高田四ツ谷町の内と高田四ツ谷下町を併せ、さらに旧土井能登守(越前大野藩6万石)、小笠原信濃守(播磨安志藩1万石)、細川越中守(肥後熊本藩54万石)の下屋敷と武家地を合併した。そして町名を高田老松町としたが、その町名の由来はこの縁起のよい老松からとったとされる。鶴の松は明治38年頃枯れ、亀の松は昭和8年頃枯れた。何時の頃か、どちらの木が採用されたのか、松の老木は大きな火鉢となって名残を留めている。
細川護貞様の著書にその写真がみうけられる。
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