津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

しも と おく、そして小須賀

2009-03-22 21:20:59 | 歴史
 ガラシャ夫人侍女シリーズといった感があるが、「マリア」と「小侍従」をご紹介したついでに、「しも」と「おく」そして「小須賀」についてもご紹介しておこう。

■「しも」は、ガラシャ夫人の最後を伝える「霜女覚書」で有名である。
江州佐々木一族、田中之城主比良内蔵助が妹也、米田助右衛門是政妻・野々口丹波妻ハ右内蔵助か為ニも姉也、しもハ同国和尓之城主入江兵衛尉に嫁す、兵衛尉父は入江順幸入道とて生国ハ攝津之由、織田信長に仕へ申候(一書部省略)夫ト兵衛尉山崎合戦の時明智殿の手にて討死、依之其子仁兵衛と共ニ助右衛門方ニ参、仁兵衛ハ与七郎と一所に在之、霜は秀林院様江相勤候、外ニ娘壱人有名ハかめ、後に京都浪人臼井九左衛門友甫と云者ニ嫁す、此故を以秀林院様御生害後ハ九左衛門所ニ罷越申候、遥後正保四年三月光尚君江戸江御参勤之前、監物是季に御意御座候ハ、秀林院様御生害の事今程覚候者可有之哉、監物母雲仙院か妹しもと申者御側に相勤、其節之儀覚居可申候、当年ハ御急被成候間、来年御登り之節京都御まん様江御寄被遊候、其時分しも罷出候ハゝ可被聞召との事ニ付、監物より其段しもに申遣候(明暦三年五月病死)

■「おく」
おくは青地何某と申人之娘にて波多野といふ人の後家波多野検校母之由、秀林院様ニ御年寄分にて相勤候、後ハ京都御屋敷内ニ被差置、御扶持方被下寛永十念致病死候、おく娘は大谷刑部少輔内寺田久左衛門妻也、久左衛門は関東乱後京極丹後守高知に奉公、千石にて鉄炮頭、大坂御陳之時討死いたし、其子源右衛門初名兵助遺領千石相続、鉄炮御預り不申候二付御暇申、其後立花家ニ三百石にて有付候得とも、彼方をも立退候処、御旗本能勢小十郎御育置御肝煎にて、正保二年十月被召出三百石拝領、扨祖母は秀林院様御老女ニて、其父青地氏なる故御家来筋之訳を以、青地久左衛門と名をも改申候、(以下略)

■「小須賀」は「小須賀覚書」なるものを書き残しているが、何者なのか説明に価する資料を知らない。

「霜女覚書--しうりんいん様御はて被成候次第之事」及び「小須賀覚書」は次のコンテンツから
 細川侯爵家の先祖忠興夫人の信仰美談 http://www.shinshindoh.com/gracia.htm
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ガラシャ夫人侍女「小侍従」

2009-03-22 10:34:57 | 歴史
 「ガラシャとマリア」で大失敗をして、マリアを平田因幡妻としてしまった。(あわてて、こっそり訂正しました。・・汗) 平田因幡(後・松本氏)と結婚したのは、ガラシャ夫人の侍女「小侍従」である。ガラシャが父明智光秀の謀反により味土野へ幽居させられる時、小侍従も供をしている。後年ガラシャの代理として秀吉に伺候した話は有名である。
 綿考輯録は次のように記す。(綿考輯録・巻九--忠興公・上p23)

【明智日向守殿より秀林院様江被附置候女房にて候、太閤様御代諸国御大名奥方伏見御城為見物被召寄候刻、秀林院様へハ御出被遊間敷由ニ而、山内と申所ニ御立退被成候、然共不被成御出候而は叶かたき趣に付、小侍従申上候ハ、乍恐私儀常に奉似御面候体候由承候間、御名代ニ罷出申度願申候間、高蔵主御取次にて太閤様御前へ被召出、殊外御機嫌よく御直ニ御茶被下御小袖等拝領、其後も右為御礼、猶又登城仕候、ヶ様之訳にて因幡果申候而も後家へ御合力米被下候】

 夫・平田因幡は息・彦三と共に田邊城に籠城した。この彦三は金工の道に進んだ為、甥に娘を娶わせ二代目とした。彦三の子孫も又金工家として名を成している。

 因幡は改姓して松本氏を名乗るが、ご子孫のお宅からガラシャ夫人に係わる遺品が見つかっている。故・細川護貞様のご努力によってである。 

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