津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

綿考輯録に見る江戸屋敷--龍口(辰ノ口)御屋敷

2009-03-03 11:09:59 | 歴史
今年(慶長七年)於江戸初而御屋敷御拝領被成候
   考ニ、四月十日忠利君二被進たる御書、并忠利君より(有吉)立行ニ被下たる五月七日の
   御書等の趣に候へハ、当春之砌御拝領被成候哉、いつれの御屋敷なるへきか、或説ニ、
   忠興君初而於江戸御拝領の御屋敷ハ、愛宕下藪小路之由、又一書に、慶長八年とあるハ
   いふかし、又御上屋敷忠興様拝領之節迄ハ空地にて候ゆへ、地形悪く候、加藤主計頭様
   御拝領地ハ岡山ニて候故、彼地より土を運ひ埋上候而御屋敷ニ成候由、此時ハ只今の表
   御門之方三千坪はかりも有之、其後段々御添地有之由と云々、是今の竜の口御やしきと聞
   へ申候、此余御屋敷之事、忠興君二も忠利君二も上中下なと所々御屋敷有之たる御模様
   ニて、御作事ニ付而も思召の事等、数通の御書にも見へ候得共、いつれの所と申儀、其屋
   敷の成行もわかり不申候、将監橋際の御やしきハ坪数も広く有之たる由、乍然増上寺の隣
   ニて火災の憂無覚束を以、光尚君二至被差上、其替りニ今の白銀の御屋敷御拝領被成候

 この文章から芝御屋敷が将監橋近くにあったことが判る。後の切絵図をみると、増上寺前は町屋が並んでいるが、将監橋に近い
一画に御屋敷が在ったのだろう。その場所を特定する資料は見受けられない。
又、造成の為に土をもらったとされる加藤主計(清正)の屋敷とは、後の井伊家屋敷(桜田門前)の事である。


追記:3/4
 (元和三年)      綿考輯録巻二十(忠興公・下)p75
同年、江戸御上屋敷ニ五間ニ長サ十五間之御門楼御立被成候、奉行ハ松山権兵衛・朝山修理安末なり
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綿考輯録に見る江戸屋敷--白銀(金)御屋敷

2009-03-03 08:58:20 | 歴史
 (正保元年)二月廿七日、三田村領の内ニ而御屋敷御拝領、是将監橋際の御屋敷(芝御屋敷)際の御屋敷差上候替として被解候、広サ弐万坪に少し不足之由上屋敷より一里拾三丁程有之候、此時田中左兵衛・坂崎内膳より差出候書付

     三田村領之内ニ而、細川肥後守下屋敷受取申覚
 一、壱万六千七百弐拾五坪   但六尺間也
    四角ニシテ百弐拾九間壱尺九寸余四方之積り内
       壱万四千弐百拾四坪ハ、元屋敷之坪数也、弐千五百坪ハ、今度増被下候分
    右是ハ増上寺近所之下屋敷差上申ニ付而、為替地
    御年寄衆奉書を以肥後守拝領仕者也、仍如件、
                  細川肥後守内
     寛永廿一年二月廿七日    田中左兵衛
                         坂崎内膳
              朝比奈源六殿

 此比白銀御屋敷近所には人家一軒も無之野原なり、光尚君御意ニ、かわりたる所に屋敷を取りたりと人も笑ふへし、去なから万一謀反人なと有之時、品川口に人数押事もあらんか、我々此所に居るならハおめ/\と通しハせましとおもふゆへ取りたりと被仰候、御作事出来、御移徏已後も御屋敷廻りに狼出てなく声御居間江もきこへ候となり、御長屋ハ将監橋芝御屋敷より御引せ被成候、御台所其外其節之御作事古、御居間・御対面所・色付之御間なり、大書院・小書院。栂書院・含雲文会なとハ後之御作事也、御庭被仰付候二も今迄野原故人数かゝり候二付、御家中之下々御雇にて出来仕候由也延享二年乙丑二月十二日、白銀御屋敷御類焼なり  (以下略)

 蛇足:細川重賢公を銀台公と申上げるのは、白金邸を白銀台と呼んだ事に由来している。
 
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