津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川家と二つの火鉢

2009-03-18 09:27:09 | 歴史
その一 
諸大名が登城した際、大広間には特別に「細川火鉢」というものが別に一つ置かれたという。三齋の時代に始まり、光尚の時代まで三代続いたが、綱利代に入り綱利幼少にて登城が途絶えた為、この時期に中止になったらしい。外様なれども外戚同様の特別の扱いがなされていた事が窺える。(綿考輯録・巻二十六から)

その二
目白の下屋敷(旧・高田老松町76番地--現・目白台1丁目1番地?)を切絵図でみると、細川邸の門前に鶴亀と名付けられた二本の老松が描かれている。鶴の松は見上げるように高く、亀の松はやや低くて平らであったそうだ。明治5年、高田四ツ谷町の内と高田四ツ谷下町を併せ、さらに旧土井能登守(越前大野藩6万石)、小笠原信濃守(播磨安志藩1万石)、細川越中守(肥後熊本藩54万石)の下屋敷と武家地を合併した。そして町名を高田老松町としたが、その町名の由来はこの縁起のよい老松からとったとされる。鶴の松は明治38年頃枯れ、亀の松は昭和8年頃枯れた。何時の頃か、どちらの木が採用されたのか、松の老木は大きな火鉢となって名残を留めている。
細川護貞様の著書にその写真がみうけられる。
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