津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

三齋逝去後の八代衆の動向

2009-03-07 18:56:30 | 歴史
 正保二年十二月二日、忠興は八代城内で亡くなる。御年八十三。
綿考輯録は、三齋逝去後の八代御侍衆の動向を、次のように記している。 

『三齋君之御家老長岡河内・一色杢・志方半兵衛 半兵衛ハ他国ニは御出し不被成、後ニ子共被召出候 何も御暇相願候間、願之通被仰付候、佐方与左衛門・福知平右衛門・井門文三郎・芦田十左衛門・魚住平左衛門等は宮松殿ニつかへ、其外宮松殿江も有之、御暇申候も有之、熊本江被召候も有之候、八代江は長岡勘解由延之・丹羽亀之允・伊丹半弥等被差越候間、御城引渡思ひ/\に立去り申候』

 この中にある丹羽亀之允が、八代御侍衆の動向について委しい報告書を藩庁に提出している。「丹羽亀之允言上之覚」と名付けられたものだが、御暇を願い出ている長岡(村上)河内をはじめとする、八代御侍衆についてのいろいろな情報が書き出されている。「上妻文庫」から何とか訓下して、数回にわたってご紹介しようと思っている。思いがけない親族関係が記されていたりして興味が尽きない。
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「細川幽斎の養父について」

2009-03-07 08:18:53 | 書籍・読書
 日本歴史学会の『日本歴史』730号(2009年3月号)に、「細川幽斎の養父について」という山田康弘氏の一文が掲載されている。東京在住のMS氏からわざわざお教えいただいた。幽斎は通常言われている、「和泉守護家細川元常の養子ではなく、淡路守護家細川晴広の養子だった」としている。

 この論の元に成っているのは、綿考輯録・巻二五(忠興公下巻-p303)にある、九十一歳の老尼「しゅゑい」の一文である。ここに「いつ(伊豆)さまと申ハ形部少(刑部少)さまの御親、ゆふさい(幽齋)さまのおほち(祖父)にて御座候・・}とある。この書状の文面を、綿考輯録の編者小野武次郎が取り上げることなく、「刑部少は細川元常」と比定したことによる、とするものである。

 武次郎は「考ニ、此覚書いふかしく候」とはねのける。「況や九十余歳の老尼取しまりなく書付たるハふまへにも成間敷候」とにべもない。山田氏の御説はこの矛盾をついて論を展開されているのだが、説得力がありなかなか面白い。多くの方々にこれをお読みになっていただいて、議論を重ね、真実に一歩でも近づきたいものだと思う。
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