津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

三齋死後の混乱と、光尚の仕置き

2009-03-13 09:56:17 | 歴史
 「丹羽亀之允言上之覚」は、三齋の死の直後の八代の動静を藩庁に報告した、十三通に及ぶ文書である。そんな報告書のなかに次のような一文がある。

    三月十六日、藤崎作左衛門宛書状(抜粋)

       此表(八代)侍衆■二而取沙汰候ハ公儀御年寄衆様へ可被遊御談合与被成御意候ハ
       三齋様御領分ハ松助様と中無殿御息女と御縁辺被仰合松助様へ三万五千石可被進と
       可分置御談合候宮松殿ニ者三万石被進候二相究可申由ニ御座候

 この文書の内容は大変興味深い。家老長岡(村上)河内らの考えであったのだろうか、幕閣への働きかけさえもが検討されていたことを示唆している。この文中に登場する「松助様」とは、光尚の弟・尚房のことであろう。尚房に中無(立允・立孝)の息女を娶わせて三万五千石を与えようというのである。中無の息女といえば鶴姫(長命)しかいない。尚房が寛永十四年生まれ(当時九歳)、鶴姫は寛永十八年生まれ(当時五歳)である。結果としてこの話はまとまっていない訳だが、光尚の弟であるだけに有りうべき話とも思える。尚房は長岡佐渡寄之女(万)を娶り寛文五年新知二万石、この家は嫡子尚方に継嗣がなく絶家した。鶴姫は大炊御門家・左大臣藤原經光に嫁いだ。

 三齋死後の八代は、いろいろな思惑が交錯して不安定な様相を呈している。光尚は宮松(行孝)を宇土へ移して宇土支藩を立藩させ、薩摩の抑えとしての八代の重要性を考慮して松井興長を入城させた。その光尚の仕置きは、まさに英邁なる名君であったことを証明している。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする