三齋の死の直後の八代の有り様を、藩庁に書き送った「丹羽亀之允言上之覚」をタイピングしているが・・・・とんと進まない。読めない字が多くて、■表記ですすめていたら、■だらけになってしまった。一つ一つ「くずし字辞典」で潰していくのだが、最近はこの作業のほうが主になってしまったようで、公開には程遠い。
さてこの「丹羽亀之允」何が原因か知らないが、陽明学徒が追放されたと同時期(寛文九年十月六日)「御暇」が出ている。先祖附を読んでいないので、はきとした事がわからない。「丹羽亀之允言上之覚」を後年編した同名源吾正名の後書きによると、「子無之及老年御知行差上益城郡木倉在江引入候由・・・」と記している。
三齋死去後の三齋に仕えた侍衆の、離国する者、宇土支藩立藩に伴い宇土へやられる者、本藩へ帰る者、悲喜こもごもの模様を眺めてきた亀之允にとって、晩年の感慨は如何なものであったのだろうか。
59頁ほどのものだが、進捗率10%で頓挫している。
さてこの「丹羽亀之允」何が原因か知らないが、陽明学徒が追放されたと同時期(寛文九年十月六日)「御暇」が出ている。先祖附を読んでいないので、はきとした事がわからない。「丹羽亀之允言上之覚」を後年編した同名源吾正名の後書きによると、「子無之及老年御知行差上益城郡木倉在江引入候由・・・」と記している。
三齋死去後の三齋に仕えた侍衆の、離国する者、宇土支藩立藩に伴い宇土へやられる者、本藩へ帰る者、悲喜こもごもの模様を眺めてきた亀之允にとって、晩年の感慨は如何なものであったのだろうか。
59頁ほどのものだが、進捗率10%で頓挫している。
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