津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■再び「慶長五年七月晦日 真田昌幸宛石田三成書状」

2016-07-30 10:11:46 | 歴史

 この書状は長野市松代の 真田宝物館が所蔵するものだが、幽齋の田辺城籠城にも触れられている貴重な史料である
このことについては以前に 
■真田昌幸宛石田三成書状 に記した。

サイト信州上田軍記 にはこの書状をはじめ慶長五年のいろいろな書状が紹介されているが、父子三人のそれぞれの立場が伺いしれて大変興味深い。
大河ドラマ「真田丸」で好演している俳優陣の顔が浮かんでくる。

さてこの書状は、真田昌幸が七月廿一日に使いを以て届けられた書状に対する返書である。廿七日に居城佐和山で受け取っている。
先づ以って今度の意趣、兼ねて御知せも申さざる儀、御腹立余儀なく候。然れども内府大坂にあるうち、諸侍の心如何にも計り難きに付いて、言発の儀遠慮仕り畢んぬ。なかんづく、貴殿御事とても公儀御疎略なき御身上に候の間、世間かくの如き上は、争いかでとどこほりこれあるべきか。いつれも隠密の節も申し入れ候ても、世上成り立たざるに付いては、御一人御得心候ても詮なき儀と存じ思慮す。但し今は後悔に候。御存分余儀なく候。然れどもその段もはや入らざる事に候。千言万句申し候ても、太閤様御懇意忘れ思し食されず、只今の御奉公希ふ所に候の事」とあり、西軍の戦略について昌幸が蚊帳の外に置かれ、憤慨していることが判る。
最末尾には「豆州(信幸・信之)・左衛門尉(信繁・幸村)殿に、別紙を以って申し入るべく候と雖も、貴殿御心得候て仰せ達せらるべく候。委曲御使者申し伸べらるべく候」とあるが、信之は徳川方につくことを鮮明にし七月廿四日家康の書状を得、廿七日には安堵状が発せられている。

そんな中で報告として幽齋の田邊城籠城や、禁裏による開城の斡旋のことなどを報告しているのである。
但し十七日のガラシャの死には全く触れられていない。すでに昌幸は承知のことであっただろうが・・・・
詳しく読むと大変面白い書状である。
 

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