津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■春眠あけの蛙

2024-06-10 09:38:03 | ご挨拶

 日曜日朝の所ジョージの「目がてん」が大好きで欠かさず見ているが、昨日は40年も我が家の庭に池を作ってビオトープにされている方の話があった。
そこに絶滅危惧種のカエルが二種すんでいるという。
一匹は春眠中、一匹は春眠明けの状態だったようだが、私は「カエルの春眠」という言葉を初めて知った。
冬眠明けしたカエルは卵を産むと、再び春眠に入るのだという。

 我がマンションの下を健軍川が流れているが、年の8割方くらいは涸川である。
今の時期は時々雨が降って、流れができるが今日は流れは途切れてぽつぽつと何か所かの溜水ができている。
これが梅雨時や台風シーズンになると濁流渦巻く暴れ川となる。
そんな川に数日前からカエルの鳴き声がし始めた。声からして大型のカエルである。
先の話からすると、卵を産んでオタマジャクシになってという事になるが、やや上流部にある堰上の水たまりで生息しているのだろう。
毎年繰り返される自然の営みだが、この時期が春眠明けという事だろうか。

        手をついて 歌申しあぐる蛙かな  宗鑑

 

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■津川四郎右衛門殿「常々病者」

2024-06-10 07:09:18 | 人物
 管領斯波氏は左兵衛儀近の代、織田信長と不和になり永禄二年感触停止となった。
二男津川辰珍は蒲生氏や蜂須賀氏をへて、忠利代豊前細川家に客分として召し寄せられた(1,000石)。
肥後入国にあたり250石加増、寛永19年には妹(織田信重室)の子・細川家家臣津田三十郎に700石分知している。
万治元年に亡くなっているが、以前から病気がちであったらしい。
「大日本近世史料・細川家史料25」のp264「五三七八」にその消息が見える。寛永十六年六月十日付けの宮木越前以下
6名に宛てた書状である。
   一筆申入候、我等内津川四郎右衛門尉と申者、歳五十六ニ罷成候、常々病者ニ御座候間、
   乗
物ニ乗せ申度候條、被成御赦免可被下候、恐惶謹言
「病者であるから乗り物に乗る事をお赦しいただきたい」というのだが、名門の人成るが故の忠利の配慮が見て取れる。

寛永十六年(1638)56歳とあるから、没年である万治元年(1658)は76歳であることが判る。
一病息災で長生きした。辰珍には男子がなく、兄・近利の孫・辰房を継嗣としている。
 
 斯波義近---+-----近利-----数馬-----辰房
      |                                 ↓
      +---四郎右衛門辰珍===辰房---辰行・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→細川藩・津川家
      |
      +------女
織田信長弟      ‖--------津田十三郎長相・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→細川藩・津田家
 信秀----信包----信重
        
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