1991年6月3日に発生した 雲仙普賢岳の大火砕流から、23年が経過したが、当時熊本市内でも空が暗くなり、真っ黒なよなが降り注ぎ、
車の屋根が瞬く間に真っ黒になり驚いたことを思い出す。
数日前から私は、司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズ・17「島原・天草の諸道」を読んでいるが、初版は1987年だから、当然ながらこ
の大火砕流のことはご存じない。
私は雲仙岳のこの大火砕流があった後には雲仙を訪れたことはない。
対岸である熊本の松尾や小島、また三角半島側から荒々しい山体をながめている。
当時取材に入っていた記者やカメラマン、地元の市民、消防の人々など多くの犠牲者がでたが、被害は島原に留まった。
この山は、寛政3年(1791)10月8日に初めて地震が起こり、翌年の(1792)4月1日山体は崩壊して市街地は地割れが走り、山崩れの
土砂が海に達し熊本側は津波の被害により大勢の被害者が出た。「島原大変・肥後迷惑」と呼ばれる所以である。
司馬遼太郎はいかにもこの人らしく、古記録をさぐり、時間をさかのぼり地震が初めて起きて以来の経過を記している。
正月18日の大噴火以来、溶岩が流れ出したのは2月の上旬あたりかららしい。3月1日の噴火で火砕流が海まで達した。
それ以来わずかな地震は続いたが、割と平穏な日々が続く中、4月1日突然山体が崩壊して島原に於いて1万人弱の死者が出たという。
高い処で20mほどの津波が駆け上った熊本県側では5,000人ほどの死者が出ている。
噴火が起こり溶岩が駆け下る絵を見て、これが「島原大変・肥後迷惑」その日のことかと理解してきたが、知らぬ事とは恐ろしい。
実際は3億4千立方メートルという膨大な土量を、約3分ほどで崩壊させ土石流としたことによるものであるという。
1792年の寛政の大惨事からおよそ200年を経た、1991年の大災害を我々はTV報道で目の当たりにし、実際その噴煙は熊本の空に達した
のだが、こうして過去の雲仙岳のことを詳しくたどると、まさにはげしく胎動する地球の営みに驚かされる。雲仙岳は鎮魂の山である。
このところ頻発する地震にも心しておかないと、災害は近い内にまた繰り返されるような気がしてならない。
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