今朝ほど書いた細川護久候の四女・志津姫は阿蘇家に嫁がれたが離婚されている。経済的理由だとされるが維新期の神社経営は大変なものであっただろう。
離婚後は三角半島の突端に当たる場所に住まいを定められた。現在はどうかは知らないが、私の知人の所有するところであったが一度拝見させていただいたことがある。
30坪ほどの質素な和風建築である。ここで御付の人たちと過ごされたかと思うと、少々感慨深いものを感じた。
一方では天文十八年(1549)「阿蘇惟豊」が従二位に叙任されるについて天皇に百貫を献上したという記録が残るそうだが、これは最高額であるとされる。(今谷明著:戦国大名と天皇)
例えば伊達植宗なる人物が永正5年(1508)に左京太夫に任官した時は30貫であり、その他朝廷の関係者に20.3貫を要し、太刀の献上に58.2貫そのた諸々で255貫を費やしている。
それからすると、阿蘇家の費えはまだ大きなものであったかもしれない。
これは「銭勘定」のようだから、とてつもない金額ではない。まだ1両などという「金勘定」が成立していない時期だが、たっとえば江戸初期の「1両=銭6,000文」からすると255貫文は42.5両(1両=10万円」とすると425万円ということになる。
これが高いのか安いのかは判らないが、このようなことも朝廷の大切な収入源であったことは間違いなさそうである。
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