津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■阿蘇家はお金持ち?

2024-06-17 10:39:45 | 歴史

 今朝ほど書いた細川護久候の四女・志津姫は阿蘇家に嫁がれたが離婚されている。経済的理由だとされるが維新期の神社経営は大変なものであっただろう。
離婚後は三角半島の突端に当たる場所に住まいを定められた。現在はどうかは知らないが、私の知人の所有するところであったが一度拝見させていただいたことがある。
30坪ほどの質素な和風建築である。ここで御付の人たちと過ごされたかと思うと、少々感慨深いものを感じた。

 一方では天文十八年(1549)「阿蘇惟豊」が従二位に叙任されるについて天皇に百貫を献上したという記録が残るそうだが、これは最高額であるとされる。(今谷明著:戦国大名と天皇)
例えば伊達植宗なる人物が永正5年(1508)に左京太夫に任官した時は30貫であり、その他朝廷の関係者に20.3貫を要し、太刀の献上に58.2貫そのた諸々で255貫を費やしている。
それからすると、阿蘇家の費えはまだ大きなものであったかもしれない。
これは「銭勘定」のようだから、とてつもない金額ではない。まだ1両などという「金勘定」が成立していない時期だが、たっとえば江戸初期の「1両=銭6,000文」からすると255貫文は42.5両(1両=10万円」とすると425万円ということになる。
これが高いのか安いのかは判らないが、このようなことも朝廷の大切な収入源であったことは間違いなさそうである。

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■二つの論考を読む

2024-06-17 06:01:58 | 論考

 昨日は二つの資料を読んだ。
   1、お姫様たちの西南戦争:史料の解題と紹介
          2007・03・05 「文学部論叢」 三澤 純氏
   2、砂取細川家と顕光院 (講演史料)
          平成29年10月7日 くまもと文学・歴史観 青木勝士氏

 西南戦争開始時、官軍は西郷郡の侵攻に備えて「射界の清掃」を行っている。
官軍はこれを事前に細川家に通達したらしく、北岡(現・北岡自然公園)邸には当時ここに細川護久の側室・縫が生んだ三人の姫がおられたが、すぐさま避難のために立田邸に出発された。そして40日余にわたり戦況を見ながら避難行をされた。
さて、この資料に「射界の清掃」のことが書かれていることは承知していたから、これを読むのが目的であったが、ここで「坪井付近で60軒、安政橋辺にて30軒ばかり」を焼き払った(東京日々新聞記事)と紹介していることを確認、目的を果たした。
 「射界の清掃」は18日に通達され、19日の正午に実行される予定であったが、余りにも急な通達に住民は避難のすべもなくおろおろする中30分延長され、町々に放火、火の海になった。
三人の姫、嘉寿(9歳-22歳没)・宣(7歳-伯爵・松平直亮室)・志津(6歳-男爵・阿蘇惟孝室、後離婚)は、長い避難行が続き、4月27日大風雨の中、北岡邸に帰られ東京から帰熊されていた護久公にお会いになることになる。
(但し御三方の満年齢については、嘉寿姫が明治二年九月十四日生で7歳、宣姫が明治四年三月十五日生で6歳、志津姫が明治五年八月六日生まれで4歳ではないかと、私見を述べておく)

 (1)の論考の中に、細川斎護夫人・顕光院についての消息が書かれていた。
 (2)の史料では、顕光院を実娘・峯姫(松平春嶽夫人)が東京から見舞に熊本に訪れたことが紹介されていたが、これが(1)の資料により「老衰」と「持病ノ癪気・眩暈」で上京の予定をやめたことが記されている。壬申(明治5年)三月(17日)付で、東京府にあてたものである。顕光院と長男嫁・鳳臺院、護久長男・建千代、長女・嘉寿も同行予定であったが、これも取りやめになっている。
(2)の資料を補強する史料である為、(1)資料に該当部分をコピー添付した。

 

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