津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「元結を切ったのか」「髻を切ったのか」??  

2024-06-03 06:54:26 | 歴史

           

 御存知明智光秀が六月二日の謀叛後に細川藤孝・忠興父子に助勢を乞う書状である。
日付は六月九日であり、信長を殺してから七日目である。
忠興は光秀にとっては娘婿であるから、助勢を乞うのは当然であろうが、二人がすでに「もとゆ井=元結」を斬ったことがこの書状の一行目
に書かれている。
以前も触れたが、これ以前光秀は謀叛後にはすぐ細川父子に接触を試みたのは間違いなかろう。しかし書状などは残されていないが・・・
「元結」とは髪を束ねて結い上げるための「こより」である。この文章からすると、ただざんばら髪になったという状況だが、資料によっ
ては「髻=もとどり」と解しているものがある。
「髻を切ることは桑門同様」とは森鴎外の「阿部一族」にも書かれている。「桑門」とは、出家して修行する者の意とされる。
当時の藤孝・忠興父子は、「茶筅髷」であったろう。髻を切るとは「髷(まげ)」を切り落とすというのだから、しばらくの間は「髷」をゆう
ことができない。
さて、「元結を切ったのか」「髻(もとどり)を切ったのか」詳しく解説されているものに触れたことはない。
この時期父・藤孝は隠居し、忠興に後を託している。
しかし、「永源師壇紀年録」によると、正式に剃髪したのは「此月ノ廿七日二於テ屋形ハ織田家ノ追薦ノ為二剃髪シテ幽齋玄旨ト号ス」とある。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ■文化三年梅雨時の事 | トップ | ■聢与 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿