津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■真田昌幸宛石田三成書状

2016-01-30 07:31:08 | 史料

 一昨日ご厚誼いただいている東京在住の近世史家S氏からメールを頂戴したが、松代の「真田宝物館」に出かけられた由であった。
ご覧に成った諸資料のなかに、石田三成が真田昌幸に宛てた文書があり、その中で細川忠興について触れられている事をご連絡頂いた。
じつはこの文書については以前某氏からその存在をお教えいただいた事があった。多分同じものだろうと思う。
改めてWEBを検索して見ると、「信州上田軍記」というサイトがあり、ここに「慶長5年(1600)7月晦日 真田昌幸宛石田三成書状」があった。
細川家に関わる部分を上記サイトから引用させていただく。

      長岡越中(細川忠興)儀、太閤様御逝去已後、かの仁を徒党の大将に致し、国乱雑ぞう意せしむる本人に候の間、即ち丹後国へ人数差し遣はし、
      かの居城乗取り、親父幽斎(細川藤孝)の在城へ押し寄せ、二の丸まで討ち破り候のところ、命ばかり赦免の儀禁中へ付いて御佗言申し候間、
      一命の儀差し宥され、かの国平均に相済み、御仕置半ばに候の事

忠興は六月には家康の上杉攻めに出陣した。その留守を狙って三成は玉造の屋敷を包囲し、ガラシャ夫人は人質になることを拒んで七月十七日自栽した。その数日後には、幽齋の居城田邊城も三成の命を受けた15,000程の軍勢に包囲された。
処がこの文書の日付は七月晦日である。天皇の勅諚がもたらされたのは二十七日だが、幽齋は使者に対面して決死の覚悟を披露し古今伝授に関わる諸品を禁裡に献上した。両軍和議の使者が到来したのは九月十二日である。
このような事からすると、七月晦日のこの手紙の文面は理解しがたい処が多い。つまり三成はこの時期幽齋が禁裡の勅諚により命が助けられると読んでいる。このような認識が三成にあったとすれば、早々にこれらの軍勢を関が原に向けるべきではなかったのか。
500程の守勢が大いに働き、多勢の軍勢をひきつけた事は関が原の戦いに大いに影響したといえる。

関が原の戦いの火蓋が切られたのは、慶長五年九月十五日田邊城に和議の使者が到来した三日後の事である。敗軍の将となった三成は九月二十一日に捕らえられた。
家康は三成の捕縛に付いて特に文書をもって忠興に報告した。ガラシャ夫人の死という大きな犠牲をおもんばかっての事である。
十月一日、家康の命により六条河原で斬首された。享年41歳。 

先の文書が発せられてから僅か二ヶ月ばかりの事である。 

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