津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■血脈と長幼の順

2024-06-08 06:28:15 | 歴史

 朽木家の定彦さん問題を随分取り上げてきたが、この問題は三淵大和守藤英(幽齋義兄)の血脈問題が絡んでいる。
先にも書いた通り、朽木家は朽木稙綱の養子となった三淵藤英の三男・昭貞を初代としている。
処が先の■八代朽木家取扱之扣写(4-1)で触れた通り、大和守藤英の血脈が途絶えることを危惧しての騒ぎであることが判る。
     1     2      3      4      5      6           
朽木家は、昭貞==昭知ーー昭重==昭長ーー昭員==昭直ーー●          昭信
                             ‖      ‖ーーーーーー定彦
                            7 昭恒ーー●
                                  ‖
                                8 昭久
と繋がっているが、6代目までは朽木一族(男系)でつながれてきた。

7代目は6代の女婿で郡織衛(三淵藤英の子・秋豪の孫・藤正系)四男であり、8代目は7代目の女婿で松井営之の末子である。
故に男系血脈は8代目で途絶えたとも云えるのだが、8代目昭久はなにやら大和守藤英の
血脈にこだわっている。

昭久には7代の女婿である相聟の義兄 昭信があるが、この人物が病身である為、妻子をのこして実方(宇土細川家)に引き取られた。
その男子が定彦だが、8代・昭久長幼の礼をとって義兄の子・定彦を順養子にしようというのだが、どう考えても「大和守藤英」の男
系血脈とは言い難い。

つまるところ、定彦が刑部家の養子となったため、朽木家の9代目は昭久の嫡子・昭吉が相続した。
途中で女系相続があるものの、DNAはちゃんと継承されいる。

 深読みをすると、これは定彦氏が順養子を嫌っているのではなく、叔父である8代の後はその嫡子につがせるべく言い出したのでは
ないかと考えると、この騒ぎは落着するのである。
結果はそうなった。
細川宗家8代重賢の末弟が、刑部家の6代当主(興彰)となっているが、興彰も先代の男子を順養子として7代(興貞)に譲り、自ら
の男子は別家を興した(初代・興度)。

興彰もまた、刑部家の正統な血脈の相続のためにそういう判断をしたのであろう。
定彦はこの興度の養嗣子となり、別家2代目となっている。

 朽木家8代の昭久は7代の長女(義姉)の血筋がより大和守藤英の血筋としては近いと考えたのであろうが、順養子の考えは次弟が
家を継いだことにより、兄の子を養子にしようという「長幼の順」の考え方が大いに反映されている。

水戸徳川家の二男・光圀が水戸家を継ぎ、兄頼重が高松松平家の当主とされたことから、光圀は頼重の子を順養子として水戸家を継が
せ、自らの嫡子は頼重の継嗣子としている。

美談として伝えられるが、これも光圀が「長幼の順」にこだわっていることが判る。
朽木家の一件は、お互いを思いやる関係者の美談なのではないかと思い始めている。

 

コメント
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