津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■野田小左衛門という人

2020-01-29 09:41:22 | 人物

 現在ご紹介している「細川小倉藩‐日録」を眺めていると、盛んに野田小左衛門(幸長)の名前が出てくる。
奉行を勤めていたようだが、於豊前小倉御侍帳には「馬廻組五番 百五十石」とあるし、松本寿三郎氏編の「熊本藩御書出集成」には、元和八年の忠利公の判物に百五十石とある。なかなか剛毅な性格の人物だったようで多くの逸話が残されている。
古史料として「随聞録」というものが残されているが、2年前のいまごろ、熊本県立大学の大島明秀教授がこれを翻刻して「細川侯五代逸話集」として発刊された。
野田小左衛門についても、23話から28話まで登場しており、この人物の逸話が異常に多いことが伺える。

   23・屋敷が気に入らない  
     これは八代に三斎のために建てた新居の材料についての話である。
     次の間以下は節のある材木で作られていたことに対する三斎の怒りに対して弁明に赴き、これを言い伏せてか
     えって「忠利はよい家来を持った」と言わしめている。
   24・奉行のつとめ     
     これも三斎の怒りを買った話。奉行として「水夫米」や「墓所年貢」を八代領にも懸けたが、三斎の怒りは死
     を給うかも知れないと忠利の心配をさそうが、是も見事に乗り切っている。
   25・財政再建の秘訣    
     忠利から財政再建のための献策を求められ、小左衛門は忠利が平常使用する高価な紙を用い、「殿様に都合の
     悪い事をな
さる事」と認めた。紙一枚でも節約するようにとの意である。
   26・類焼の責任
     細川家の大坂蔵屋敷からの失火により近辺の商家が類焼した。忠利は細川家による再建を思い立ち家老衆も同
     意したが、小左衛門は「馬鹿げたこと」と発言して忠利の怒りをかった。
     責任者は切腹して事の重大さを知らしめており、小さな火事ゆえ再建をし、もし大火を出してこれは再建でき
     ぬでは通らないだろうと小左衛門は主張する。

     これらの事がすべて記録に残り、これが先例となりすべての事例で再建が求められる。
     他藩に於いても起こりうる話で、細川家の行いが悪しき事例とならないようにすべきだとのべる。
   27・船が沈んだ
     大阪のコメ相場は肥後の米の取引によりもたらされたとも言われた。どうやらその発案者が小左衛門らしい。
     大量のコメを大坂に運び高値で売りさばき、藩に利益をもたらそうというのである。
     大船を出航させたところ運悪く米を乗せたまま舟が沈没した。怒った家老衆は17ヶ条の悪事があるとして攻め
     立てたが忠利は弁明の機会を与えた。かえって御羽織を下しおかれて面目を施している。
   28・石高は増えない
     小左衛門は老齢に至り、頭巾と胡坐がゆるされ忠利の話相手を勤めたという。
     奉行としてその職責を果たした小左衛門だが、加増もなく禄高は150石のままであった。
     (役職に対して足高が定められるのは宝暦に入ってからの事である)
 
 小左衛門は片目が見えず、足も不自由で馬にさえ乗れなかったという。(島原の乱以降の事か?)
                              追記: 寛永元年八月四日「日帳」
            野田小左右衛門(ママ)まなこ煩申候間、一両日宿ニ而やうしゃう(養生)申候て、
            少能候ハヽ、中津へ参候由被申、今日よりはいり被申候事
しかしながら生来弁舌爽やかで道理を説き明かすことに秀でていたという。それぞれの逸話がこれを物語っている。
豊前時代から肥後入国後までの彼の働きぶりが「細川小倉藩‐日録」も含めて記されているが、150石の小身ながらも政事の中心にあってその職責を見事に果たしていることが伺える。




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