つい最近駿府城から豊臣時代の遺構が現れ、金箔を施した瓦などが発見されている。
いわゆる豊臣政権時代の三中老の一人であった、中村一氏が建てた城の跡であろうと推測されている。
生駒親正(讃岐高松17万石)、堀尾吉晴(遠江浜松12万石)、中村一氏(駿河府中14万石)をもって、豊臣政権三中老と称するが、最近の研究ではこういう役職があったのかどうか、疑問視されている。
(1) (2)
ここに細川家家臣の堀尾彦左衛門、中村孫平次の自筆と花押がある。共に三中老の堀尾家・中村家のご子孫である。
(1)堀尾彦蔵(養子・彦左衛門)は、7代目御番方・牧新五組(八百石)、嘉永三年三月~安政三年正月 鉄炮五十挺頭
を勤めた人物である。堀尾吉腫の直系は途絶えているから傍系であろうが「4代茂助(夫右衛門)」については侍帳に
「千石 拾挺頭 宝暦十一巳十一月十四日当役 帯刀先生吉晴ヨリ出」とある。
「米子史談17・中村家の諸系譜」によると、堀尾帯刀吉晴室は中村一氏妹(姉?長幼不明)とある。
(2)中村孫平次は 7代孫平次、比着座二代目・長岡組(千石)で長く番頭を勤めている。
孫平次の名前はまさに一氏と同じである。
中村家は 中村式部少輔一氏→(二男)庄右衛門正吉→(嫡子)靱負政長と続き、「兵馬家」「新太郎家」
「庄右衛門家」の三家に別れ明治に至った。
靱負政長は金春流の能の大家として豊臣秀吉や加藤清正・細川家に仕えるとともに多くの大名や幕臣・公家などに印可を
与えたりしている。
これらの貴重な史料は、庄右衛門家のご子孫「肥後金春流・中村家」に現在も伝えられている。
又、歌舞伎の中村勘三郎家や、幽齋公の田辺城籠城の際禁裏に使いした中村甚左衛門(現・沢村家)なども一族である。
又、細川家家臣に「生駒氏」も居られるのだが、こちらは「生駒親正」との関りが確認されないが、一族であろうことは推測される。