【真作】第二代肥後熊本藩主 細川光尚 三淵縫殿宛消息 白嵜顕成箱書 紙本 江戸前期 大名 豊前
細川藤孝ーーー忠興ーーー忠利ーーー光尚
↑ 肥後守
+---三渕藤孝
| 縫之助
+ーーーーーーーー 好重 ーーーーーー重政ーーーーーー之直
【真作】第二代肥後熊本藩主 細川光尚 三淵縫殿宛消息 白嵜顕成箱書 紙本 江戸前期 大名 豊前
細川藤孝ーーー忠興ーーー忠利ーーー光尚
↑ 肥後守
+---三渕藤孝
| 縫之助
+ーーーーーーーー 好重 ーーーーーー重政ーーーーーー之直
熊本史談会の若い友人N君から、肥後郷土史「呼ぶ」の1972年3月号(№147)を頂戴した。
この優れた郷土史は主宰されていた山口白陽氏が亡くなられて廃刊となったが、その内容を見ると熊本の各界の著名人が綺羅星の如く投稿されていて驚かされる。
この中に高森良人氏の「儒雅の威神」という、狩野直喜に関する一文があった。
狩野直喜は私の祖母の叔父にあたる人だが、昭和19年、私の父が亡くなった後寡婦となった母を心配してくれたという。
母が亡くなる前に日記をつけていたことを承知していたが、母は見事な終活をしてこの日記帳を含め身近の物を全て処分していた。
母の日記帳は大学ノートだったが、表紙の見返しに「貧健拙心安」という言葉が特徴ある文字で書かれていたことを覚えている。その深い意味や何故この言葉を記しているのかを尋ねることもなく、母の死を迎えた。
肥後郷土史「呼ぶ」の記事「儒雅の威神」を読んでいたら、なんとこの言葉が紹介されていて、本当にびっくりしてしまった。「身は家貧なるが為に健やかに、心は才拙きに因りて安らかなり」とあるが、高森良人氏によるとこれは狩野直喜の五言律詩らしい。
母は義理の仲ながらも大叔父の直喜老から、その後の生きる指針としてこの言葉を贈られたのだろうと勝手に解釈している。
相変わらず家貧ながら健やかに生きている。まことに才拙く世に名を成すこともなくいささか波乱万丈に生きてきたが、今となっては心安らかである。
母の座右を私の座右として残された人生を精一杯生きていこうと思っている。
昭和47年の古い冊子に出会い、まさか母の日記にあった言葉に出会うとは何と偶然の事か、N君に大いなる感謝である。
明和六年
二七〇
一江戸御供之面々裁付着用仕來候處、以來左之通 裁付→たっつけ→裁着袴
一騎馬御供之面々
一御關所押御物頭御案内
一御側御物支配幷下役人
一渡川支配幷御役人
一御代官幷御使者相勤候面々
一御船中御取次
一御宿取之面々
一御關札打歩御使者
右は今迄之通裁付差用之事
一右之外裁付着用之儀都て被遊御免
御發駕御着座之節たり共裁付着用不及候事
明和六 二月廿七日
二七一
一神善四郎秤相用候國々、善四郎方より役人相廻、紛敷秤
は取上ヶ候筈之段、公義御觸十月九日御達
二七二 チカ オノ セツ セツ
一斧姫様、先月朔日説姫様と御名御改候段、十二月十七日 親→斧→説→節 重賢女=細川長門守興徳室
御達
二七三
一元日朝五半時二て諸切米取以上諸町人迄出仕之事
一組外より比着座は中柱之御間両側ニ座着、御用番出席之
上一同ニ御祝儀申上候事
一右相濟、御物頭以下獨禮か切米取七人宛罷出右同断
一右畢て、歩御小姓已下諸切米取迄御廣間ニ並居、御小姓
頭罷出候上一同ニ謁ス郎事
一右相濟、獨禮之町醫・同町人御弓之間え並居、御小姓頭
右同断
一右相濟、町別當幷同列御指揃被下、諸職人・諸町人御廣
間ニて右同断
一六日右同前ニて惣寺社幷葦北御惣庄屋・一領一疋・地侍
出仕之事
十二月
御儉約中御留守之節、年頭御禮別̪帋之通候間被得其意、
觸支配方えも可被達候、以上
明和六 十二月廿六日 奉行所
明和七年
ニ七四
一太守様舊臘十八日依召御登場被遊候處、少将被遊御拝任
候段、正月四日御達
一此所天草御手當之御觸有之候得共、兵備之帳面ニ有之略
之
一胤次様御嫡子被遊候旨、先月廿三日御用番松平右京大
夫様え御届書被差出候段、二月十三日御達之事
右之御儀付て御物頭列以上便状、御郡代以下御中小姓迄
御家老廻り之御達之事
二七五
一説姫様御事此節より御中老以上、様と相唱、御両敬之御
方様へも、若殿様御同様に御両敬ニ相心得可申旨被仰出
候間、以下例文
三月朔日 奉行所
二七六
一若殿様先月十五日御實名賢年様と被進候間名乗候、右之 胤次→賢年→治年
文字幷同唱之字付居候者ハ改候様、三月廿九日御達
一今度御着城之上若殿様え御物頭列以上便状御預、以來共
便状仕出之儀御小姓頭より申來候段、五月廿ニ日御達
一若殿様細川中務少輔殿息女と御縁組御願之通相濟候、同 細川中務少輔→宇土細川藩主・細川興文
廿七日御達 同上息女 →埴(ハニ)
一右之御儀に付、御物頭列以上御両敬様え便状、御中小姓
以上御家老廻段、五月廿八日御達
一明八日御着城被遊候旨、如例御物頭列以上御機嫌伺之儀
七時ニ及候ハヽ翌日御花畑え出懸り出仕伺之筈、此以後
共御着御延引之節は翌日出仕との、六月七日御達
一御垣様御事此節より様と相唱、御両敬之御方様えも、若
殿様御同様御両敬ニ相心得候様、六月廿五日御達
一長岡少進殿御役御断ニ付願之通被仰付、百五十人指揃被 長岡少進→内膳家5代忠英(時習館惣教)弟・季規(家老職2,000石)
下段、七月廿一日御達
明和八年
二七七
一正月四日御登城時習館為入講釋初被仰付、御在國年久御
定例被仰付旨、正月二日御達
一宿次御奉否を以御鷹之鶴御拝領御歓、御物頭列以上御花
畑謁、若殿様え御中小姓以上便状仕出候段、正月十五日
御達
一町在之者共日田御用銀等決て仕受不申、受人二も立申間
敷旨御達
一御發駕三月五日之御達之事