津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■御物本成立以前の「蒙古襲来絵詞」

2018-10-16 14:13:10 | 熊本史談会

 先に■蒙古襲来絵詞の「詞」を書いた。今月の史談会例会に於いて肥後古記集覧にある、大石真麻呂の「蒙古襲来絵詞」の釈文を史料として使わせていただこうと思いそろそろ準備を始めたところである。
ここに至ってこの釈文の後書きを読んでいたら、文政五年に書き写したとある。
「あっまずい」と閃いた。じつは文政八年に大矢野家で新たな史料「絵二」と「詞二」が発見されたことをうけ、十一年に至り福田大華らによって大々的な修復が行われている。
つまり修復後の「絵詞」が宮内庁の御物本である。大石真麻呂の釈文をよくよくながめていると確かにこの「詞二」が脱落していることが判る。事前に気づいてよかったなーとホッとしている。
この「絵詞」は修復以前に模本が多くつくられている。寛政五年細川齊茲が江戸へ持参して尾張藩主・徳川治行や白河藩主・松平定信(楽翁)らがこれを展観、それぞれ模本(建中寺本、楽翁本=宮崎県立図書館本)を作らせた。
又阿蘇神社本もこの時代のものとされ、九州大学本は阿蘇神社本の写しだとされる。
つまりこれらは、「絵二」「詞二」が抜けていることになる。九州大学アーカイブスによる「蒙古襲来絵詞」は「御物本模本」と記されているが同様部分は存在しておらず間違いである。
福田大華による修復は、一部識者は「さかしらの私意」による行き過ぎたものだと批判されるが、その大華は複数の写本を作り流れ出ている。

水損した殘欠を張り合わせ、また新たに発見されたものを途中に入れ込むなど、大いに手が入れらえているとともに、異筆の書き込みなどもあると言われるこの巻物だが、国宝級の逸品であることには間違いがない。
真近に拝見してこの機会に大いに勉強したいと思っている。

 

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■度支彙凾 延享より明和迄 法令條論・十四(13)

2018-10-16 07:05:06 | 史料

 二〇五
一重キ御咎被仰付候節、親類差扣居候儀二付、別紙書付御
 用番被相渡、觸支配方えも及沙汰可申旨二付、寫之相渡
 候間被奉得其意、已下例文
一先年従公義御觸有之候御書付之外、重キ御咎被仰付候面
 々一類より差扣之儀、頭々え達有之候ハヽ、忌懸り幷聟
 小舅迄は差扣居候様差圖有之、其段翌日被相達候様との
 儀、寶暦六年八月及沙汰御書付に有之候、然處重キ御咎
 等被仰付候節は、同姓之輩或ハ姉妹聟、或ハ養實之差別
 二よつて忌ハ不懸候共忌懸り之續有之面々は、是又差扣
 被居候様差圖有之、右同断可被相達候
  但、右之續有之輩出奔之節も右同断
   寶暦十一 九月

 二〇六
一大御所様御事惇信院様來ル廿三日百ヶ日御忌二付、於往
 生院御法會被仰付候段、九月廿五日御達之事

 二〇七
一當時通用之文字金銀幷古金銀質物ニ入候者有之由、右ハ
 通用之障ニ相成候ニ付堅停止之旨、公義より九月廿五日
 御觸

 ニ〇八
一今度御鷹場五丁釜尾村等、所々海邊ニ振替候御達

 ニ〇九
一去年以來追々御物入之上、此度之御手薄莫大之御出方、
 且又御損毛有之、公邊え御届も有之程之事ニて、旁以御
 勝手向至極難澁之御事ニ付、萬端省略被仰付候、依之此
 節は、御家中手取をも被減ニて可有之候得共、左候ては
 別て可為難儀候條、何とそ減方不被仰付様取計可申旨、
 従江戸被仰下儀ニ付、去年之通手取米被仰付置候、手取
 米之儀、増減不被仰付節は及沙汰間敷旨申達置候得共、
 今年之儀は各別之御事ニ付、頭々為被承置申達候
   寶暦十一 十一月十九日

 ニ一〇
一先月廿一日依召御登城候處、御領地之御判物被遊御頂戴
 候ニ付、來ル廿五日着座以下御中小姓迄麻上下着、御花
 畑出懸り出仕之段、十一月廿一日御達

 ニ一一
一來春増奉公人望差出、十二月十五日限相達候様御達

寶暦十二年
 ニ一二
一只今迄元來寺院寺地ニて無之百姓所持之他所を寺院え寄
 附致シ、又は譲地等ニいたし候儀有之、右之地所を他之
 寺院或ハ他寺へ塔頭等譲渡し、又は本寺致離末、願主勝
 手之宗旨ニ仕舞引寺いたし、或ハ當時退轉寺號計水張等
 有之候を取立引寺號ニいたし候儀、幷墓所詰り添地寄進
 境内ニ圍込候儀、右之類自今可為無用候、百姓は勿論た
 とへ領主・地頭たり共田畑猥ニ寺院へ寄進いたし候儀、
 容易ニは難成事ニ候
 右之趣可被相觸候
   寶暦十二 二月

 ニ一三
一諸御切米取御役替之御加増、又は新規被召出候節、猥ニ
 打寄、即日は不及申追て致出會酒長シ申様子相聞候、兼
 々及沙汰候趣も有之候ニ付ては、古役より心を付取計可
 申事ニ候、以來右之通之節、親類又は相役・相組之者致
 出會候ハヽ、酒三遍ニ不過様相心得可申候、尤餘役は勿
 論同役仲間たり共、相役・相組之外は一切参合間敷候、
 此段御支配方/\え可有御沙汰候、尤以來立身加増等被
 仰付候節も、各よりも其度々心を被附候様可申達旨候、
 以上
   寶暦十二 閏四月廿九日

 ニ一四
胤次様御出生之砌虚弱有之、御届之儀御見合被為置候                 胤次→細川治年
 處、御丈夫ニ御成候二付、先月十八日御用番之御老中様
 え御届書被差出候處、無御滞御受取被成候、此節細川之
 御苗字被進當年五歳ニ御成候段御届有之候、尤御嫡子之
 御届ニは無之候間、諸事當時迄之通相心得候様、此段觸
 支配方えも以下例文
   寶暦十二 五月十三日

 ニ一五
一去ル朔日依召御登城之處、今度御手薄御勤被遊候二付、
 於御前御懇之以上意、御刀被成御拝領候段御到来ニ付、 
 御歓御寄合等之儀御達

 ニ一六
一御精進候書付、七月十九日御達候事

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