津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■北村甚太郎覚書(六・七)

2018-10-30 10:55:52 | 史料

(六)七月廿四日敵ノ総攻撃無功ニ終ル
一同廿四日互に敵味方鉄炮打合申候處尓同暮時分尓東西
 南北の敵貝を吹立一度尓殊々敷鉄炮打懸候へとも城中へ
 者たのミまいらす手負たるものも那く候 勿論城中よりも
 鉄炮きひしくうち申候事

(七)七月廿五日大草櫓ノ働キ井門亀右衛門ヵヿ
一同廿五日敵東西より一度尓貝を吹立巳の刻尓搦手の
     カハ
 
 町口外■まて時の聲を上ヶ大勢責來り申候 城中より
 侍三十人計り罷出鉄炮打合防申候處尓 幽齋公より
 為御使石寺甚助藤木伊右衛門被遣急き引候て城中銘々の
 持口を能守り候へと被仰渡月て引取候て矢倉さま塀
 裏なと相堅め居申候處尓敵大橋をわたり本町筋を
 大勢時の聲を上ヶ通り候て搦手の塀際まて小野木
 縫殿介昇参候 然共其堀の橋兼て此方より引直候付
 敵勢堀際尓つかえ居申候處右塀の上尓大草矢倉
 とて松山権兵衛預りの矢倉有之候 其時妙庵公より小林
 勘右衛門をもつて我等尓被仰付候ハ急き大草櫓へ参り
 権兵衛一所尓て鉄炮を打敵退ヶ候へと被仰下尓付則小林
 勘右衛門同道いたし大草櫓へ参り下の堀際につかへ居申候

 敵七八人打多をし申候尓付残る敵ともからへかね皆々負
 軍仕候 右七八人の内一人は昇大将と見へ申候 武者なり残る六人者
 昇差と見へ候 其時権兵衛鉄炮尓て打倒申候ハ我等見
 届申候 又我等鉄炮尓て打倒し申候ハ権兵衛見届申候 又
 其日の巳の刻尓大手へ敵大勢尓て責かけ申候 大手ハ殊尓
 我等共請取の口ゆへ急き罷帰り荒木善兵衛丸山源十郎
 宮部市左衛門大塚源次右之衆居矢倉ならびなり 各受取の
 所々より鉄炮打申候 大手杦の馬場と申先の道城より二町
 四五反計有之 其道へ小出大和山崎左馬昇参候て頻尓責時
 をあけて責懸り申時先懸仕候武者昇差八九人打倒申候得共
 跡勢しらミ道尓立留り溝にかがミ或ハ木の根尓取付かがミ
 又ハ其人の跡に取付/\して■く引兼て申ノ下刻まてかがミ
 
 居申候 時尓赤松左兵衛陳の内より母衣武者一騎馳出大
 手の杦の馬場口へ乗廻し働申候 いか様一ふし可有之事と
 城中各覚悟いたし候処左尓てはなく堀溝尓かがミ引兼た
 るものともを引取可申との儀都見へ馬上尓さいを持振廻シ
 /\見かたを招き馬を乗廻し輪順逆尓乗りて皆々しづ
 か尓引取申候 殊之外見事成ふりなり 母衣は白赤横尓段々
 筋あり母衣のだしハ同色三ッはご間尓蛇の目あり 馬の
 毛者鹿毛とも栗毛とも見へ申候 城中より祢らひ鉄炮
 阿また打懸候へとも運強く候 ■程遠く候ゆへか終尓
            ィたつね
 當り不申候 此仁乃事後尓能承候へバ赤松左兵衛物頭井戸    井戸龜右衛門後、細川家に召出さる
 龜右衛門と申者なり 有無尓其日互攻責めつふさんと敵たく
 むと見へ申候へとも城中堅固尓して鉄炮稠敷打討殺申
 尓付乗取申事不成敵引取其日ハ暮尓及ひ申候 其日乃

 晩尓敵の首二ッ上り申候 幽齋公御覧被遊御悦喜被成候 一ッハ
 搦手より久我右近右衛門申付久我太郎助と云もの尓取せ差上
 申候 一ッハ大手尓て北村甚太郎申候ハからめ手より首上りたる
                           妙庵公
 よし承り候 私首取候て上ヶ可申と御門外へ走り出申候へハ`御
 聞付被成甚太郎儀度々之働き尓先刻打倒し候事の見届

 申候なり 然上ハ無用の儀なり大切尓被思召候間自余の
 者尓價申付と被仰下尓付大塚源次家来岡本源内
 いふもの尓申付とらせ上申候 城中に者手負死人壱人も
 無之候 敵者あまた打殺申候 手負も多く可有之との城
 中沙汰之事
   傳ニ右の井門龜右衛門ハ赤松左兵衛尓て知行三百石
   鉄炮廿挺頭の由此場尓乗候馬ハ青色母衣は赤き由
   関ケ原御陳以後
   三齋様豊前御拝領被成儀慶長六年九月龜右衛門
   被召出千石被下御鉄炮三拾挺御預け被成候 其後
   忠利公肥後御拝領熊本御打入之刻御先乗被仰付御
   鉄炮五拾挺お預ヶ居屋敷見立■申様被仰付高麗門
   の前尓て拝領仕度由其節屋敷支配奥村權左衛門方迄
   願如届ニ被仰付候由御先乗相役は寺尾左助と承候
   熊本御着座大手御門尓御入被遊候後龜右衛門組乃
   御鉄炮道中切火縄尓て参候を御城尓御入被遊候と
   其侭一同尓打放させ申候由承及申候 龜右衛門ハ隠れ
   なき者尓て色々武功多く咄有之仁尓て御座候事
   永く略之

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■武具をあずかって居ります

2018-10-30 06:48:44 | 歴史

  我家に倉庫等、武具を納めるスペースを持たない者は、藩が城内の二つの櫓と、新町一丁目櫓に預かった。
■度支彙凾 明和より天明迄 法令條論・十五(8)の(三ニ七)及び(三三三)でご紹介したが、城内の櫓は竹の丸の「元札御門御櫓(右上)」と「西御櫓(左上)」である。
竹の丸から元札御門御櫓から城内に入るルートは虎口を入り階段状の道を幾度か曲がり少々足元がおぼつかなくなると、正面にようやく天守が見える、防御を目的とした戦略的に構成された、熊本城の特徴的なものである。元札御門御櫓の先に札御門御櫓があるが、城内に入るために札の提示が必要な御門であり、旧(元)と新の櫓門である。

(三ニ九)に於いては御奉行所・中門の管理の厳しさが紹介されているが、の表示が中門である。

型式は薬医門であったと言われる。(開き戸を開けたとき雨に濡れないように屋根が変則的にかけられている) 

                「医薬門」の画像検索結果                

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