2005年10月30日(日)
=日立電鉄廃線跡を大甕(おおみか)へ=
記念撮影をして8時33分、おかみさんと、道案内も
してくれるというワンちゃんに見送られ、常陸太田の
まんだらじ旅館を出発する。
台地から東に下ってまんだら橋を渡り、宮本町の角
にあるセブンイレブンで、予約してあったハンバーグ
弁当を受け取った。
東側の台地上が常陸太田市の中心街、民家の横か
ら急坂を上がると、若宮八幡宮があった。
応永元年(1394)に城主・佐竹義仁が鎌倉の鶴岡
八幡宮の分霊を城中に奉っていたのを、宝永5年
(1708)この地に移したもの。
鳥居の横には推定樹齢600年という大ケヤキが
あり、本殿の近くにも太いケヤキが立っている。
明日から菊花展が始まるとのことで、よしずで囲まれ
た小屋に鉢植えの菊が並び始めていた。
こま犬は珍しい赤銅色の焼き物である。
郵便局前の三差路を南に向かうと、看板が右書き
の高瀬理髪店や、黒塗りの蔵造りで裏手にレンガ造
りの煙突の見える建物、なまこ壁土蔵造りの民俗資
料館別館(下)など、古い建物が幾つも残っていた。
「太田町成田山道」と記された石標の角から、石畳
の道を塙町に下る。
塙坂下の四つ角にある竹製品などを並べた家も、
黒瓦のどっしりした古い建物だった。
東バイパスに出て、警察署の南に少し進んだところ
が、3月末で廃止された日立電鉄の終着、常北太田
駅跡。
構内のホーム横や側線に、廃車した車両、20数両
が残っていた。
日立電鉄は、日立市の鮎川駅~常北太田駅間の
18.1㎞に14駅があったが、今年(2005年)3月
末で営業を終えた。
最初の開通は昭和22年(1947)秋、今回歩かない
鮎川~大甕間で、将来は日立市街地へ乗り入れの
計画だったが、資金調達や採算面で頓挫(とんざ)した
ようだ。
駅のそばにいた同年輩風の男性によると、「以前は
日立製作所への通勤や、たばこ、米、ソバなどの貨物
輸送で賑わった」という。
常北太田駅構内(上)は、線路が残り架線は取り外
されていたが、国道の南側から先は、架線が残って
いて線路が外されていた。
線路沿いに山下町を少し進んで東側に回り、国道
293号に出る。ひこばえの伸びた田んぼの間を進み、
里川橋を渡って次の小沢駅跡で休憩する。
Sさん、Kさん、Mさんがコーヒーを沸かしてくれた。
駅ホームは残っており、駅の前後とも線路はないが
架線はそのままになっていた。
両側にセイタカアワダチソウの咲く廃線跡を500m
ほど進み、田んぼのあぜ道を南に回って茂宮川を越
える。
常陸岡田駅跡の東側から国道に出て、近くのセブン
イレブンのトイレを借りた。
廃線跡に戻って先に進む。国道のガードを過ぎた山
すその辺りに、ガシマケの石仏があるという。探しなが
ら行ったら、線路の南側、線路を背にしてトタンで囲ん
だ小屋に5体の石仏が並んでいた。
ガシマケとは「餓死負け」のこと、天保(1830~)の大
飢饉(ききん)で東北から流れ来て、行き倒れたり餓死
した人を供養した石仏らしい。
すぐ先の鷹房(たかふさ)神社に132段の急な石段
を上がって参拝。康平年間(1058~)、源頼義が奥州
征討の途次、建てたという古社である。
社殿は豊富な杉木立を背にして建っていた。下る車
道の横には、柿がたわわに実をつけていた。
住宅前の小さな流れにタニシやシジミ、カワニナなど
が見える平宿の集落から川中子(かわなかご)駅横を
過ぎ、廃線跡の南側に出る。
ひこばえが田植え後のような緑の彩(いろどり)を見
せる田んぼの間を進み、日立市に入る。
廃線跡を横断、常磐自動車道をくぐり、大和田町1丁
目へ。古い家並みの残る通りから南に入って大橋駅跡
に12時46分に着く。
ここで昼食となり、下りホームに腰を下ろし、皆同じ
ハンバーグ弁当を平らげた。
13時15分に出発、南側の国道6号に出て、コンビ
ニ、サンクスでトイレを借りる。
茂宮町の集落北側から茂宮川沿いに出て、休耕田
がススキやセイタカアワダチソウの雑草地に変わった
川沿いを進み、茂宮駅跡から線路沿いの車道に入る。
川の右岸を歩いた人と合流した三差路際のグランド
に、トイレがあったので小休止。さらに廃線沿いに
南高野駅跡を通過、JR常磐線を越えて廃線跡と分
かれた。
久慈町3丁目からみなと町へ、日立港に近いなぎさ
公園で休憩、Mさんから柿とまんじゅうをいただく。
歩き疲れてきた体には甘いものが何より。
漁協などのある海岸沿いを進み、久慈浜海水浴場
から台地に上がり、灯台の立つ古房地(こぼうち)公
園に着いた。松のこずえの間から、広々と太平洋の
展望が広がる。
公園には、いわし揚繰網を改良し、いわし漁獲高
を激増させたという三代芳松の立像や、「何事も
思ふことなく いそがしく 暮らせし一日(ひとひ)を
忘れじと思ふ」と詠(よ)んだ石川啄木の歌碑があった。
西に向かって住宅街を1㎞ほど、16時11分、JR
常磐線大甕駅に着いた。
16時54分発上り電車で帰途につく。
(参加 22人、天気 曇り後晴、距離 18㎞、地図
(1/2.5万) 常陸太田、日立久慈、日立南部、歩行地
常陸太田市、日立市)
=日立電鉄廃線跡を大甕(おおみか)へ=
記念撮影をして8時33分、おかみさんと、道案内も
してくれるというワンちゃんに見送られ、常陸太田の
まんだらじ旅館を出発する。
台地から東に下ってまんだら橋を渡り、宮本町の角
にあるセブンイレブンで、予約してあったハンバーグ
弁当を受け取った。
東側の台地上が常陸太田市の中心街、民家の横か
ら急坂を上がると、若宮八幡宮があった。
応永元年(1394)に城主・佐竹義仁が鎌倉の鶴岡
八幡宮の分霊を城中に奉っていたのを、宝永5年
(1708)この地に移したもの。
鳥居の横には推定樹齢600年という大ケヤキが
あり、本殿の近くにも太いケヤキが立っている。
明日から菊花展が始まるとのことで、よしずで囲まれ
た小屋に鉢植えの菊が並び始めていた。
こま犬は珍しい赤銅色の焼き物である。
郵便局前の三差路を南に向かうと、看板が右書き
の高瀬理髪店や、黒塗りの蔵造りで裏手にレンガ造
りの煙突の見える建物、なまこ壁土蔵造りの民俗資
料館別館(下)など、古い建物が幾つも残っていた。
「太田町成田山道」と記された石標の角から、石畳
の道を塙町に下る。
塙坂下の四つ角にある竹製品などを並べた家も、
黒瓦のどっしりした古い建物だった。
東バイパスに出て、警察署の南に少し進んだところ
が、3月末で廃止された日立電鉄の終着、常北太田
駅跡。
構内のホーム横や側線に、廃車した車両、20数両
が残っていた。
日立電鉄は、日立市の鮎川駅~常北太田駅間の
18.1㎞に14駅があったが、今年(2005年)3月
末で営業を終えた。
最初の開通は昭和22年(1947)秋、今回歩かない
鮎川~大甕間で、将来は日立市街地へ乗り入れの
計画だったが、資金調達や採算面で頓挫(とんざ)した
ようだ。
駅のそばにいた同年輩風の男性によると、「以前は
日立製作所への通勤や、たばこ、米、ソバなどの貨物
輸送で賑わった」という。
常北太田駅構内(上)は、線路が残り架線は取り外
されていたが、国道の南側から先は、架線が残って
いて線路が外されていた。
線路沿いに山下町を少し進んで東側に回り、国道
293号に出る。ひこばえの伸びた田んぼの間を進み、
里川橋を渡って次の小沢駅跡で休憩する。
Sさん、Kさん、Mさんがコーヒーを沸かしてくれた。
駅ホームは残っており、駅の前後とも線路はないが
架線はそのままになっていた。
両側にセイタカアワダチソウの咲く廃線跡を500m
ほど進み、田んぼのあぜ道を南に回って茂宮川を越
える。
常陸岡田駅跡の東側から国道に出て、近くのセブン
イレブンのトイレを借りた。
廃線跡に戻って先に進む。国道のガードを過ぎた山
すその辺りに、ガシマケの石仏があるという。探しなが
ら行ったら、線路の南側、線路を背にしてトタンで囲ん
だ小屋に5体の石仏が並んでいた。
ガシマケとは「餓死負け」のこと、天保(1830~)の大
飢饉(ききん)で東北から流れ来て、行き倒れたり餓死
した人を供養した石仏らしい。
すぐ先の鷹房(たかふさ)神社に132段の急な石段
を上がって参拝。康平年間(1058~)、源頼義が奥州
征討の途次、建てたという古社である。
社殿は豊富な杉木立を背にして建っていた。下る車
道の横には、柿がたわわに実をつけていた。
住宅前の小さな流れにタニシやシジミ、カワニナなど
が見える平宿の集落から川中子(かわなかご)駅横を
過ぎ、廃線跡の南側に出る。
ひこばえが田植え後のような緑の彩(いろどり)を見
せる田んぼの間を進み、日立市に入る。
廃線跡を横断、常磐自動車道をくぐり、大和田町1丁
目へ。古い家並みの残る通りから南に入って大橋駅跡
に12時46分に着く。
ここで昼食となり、下りホームに腰を下ろし、皆同じ
ハンバーグ弁当を平らげた。
13時15分に出発、南側の国道6号に出て、コンビ
ニ、サンクスでトイレを借りる。
茂宮町の集落北側から茂宮川沿いに出て、休耕田
がススキやセイタカアワダチソウの雑草地に変わった
川沿いを進み、茂宮駅跡から線路沿いの車道に入る。
川の右岸を歩いた人と合流した三差路際のグランド
に、トイレがあったので小休止。さらに廃線沿いに
南高野駅跡を通過、JR常磐線を越えて廃線跡と分
かれた。
久慈町3丁目からみなと町へ、日立港に近いなぎさ
公園で休憩、Mさんから柿とまんじゅうをいただく。
歩き疲れてきた体には甘いものが何より。
漁協などのある海岸沿いを進み、久慈浜海水浴場
から台地に上がり、灯台の立つ古房地(こぼうち)公
園に着いた。松のこずえの間から、広々と太平洋の
展望が広がる。
公園には、いわし揚繰網を改良し、いわし漁獲高
を激増させたという三代芳松の立像や、「何事も
思ふことなく いそがしく 暮らせし一日(ひとひ)を
忘れじと思ふ」と詠(よ)んだ石川啄木の歌碑があった。
西に向かって住宅街を1㎞ほど、16時11分、JR
常磐線大甕駅に着いた。
16時54分発上り電車で帰途につく。
(参加 22人、天気 曇り後晴、距離 18㎞、地図
(1/2.5万) 常陸太田、日立久慈、日立南部、歩行地
常陸太田市、日立市)