あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

足尾銅山の痕跡と旧国鉄足尾線廃線跡を歩く(続き)

2006-10-31 23:58:29 | カントリーウオーク
 06年10月28日(日)<続き>

 東側に見上げる山肌は、はげ山になっていたのが近年の植林
で、広葉樹がかなり伸びていた。



 対岸に足尾銅山の建物を見ながら、渡良瀬川左岸沿いの車道
を上流に向かう。

 前方に広がる山並みは皆、足尾銅山の煙突から排出された
亜硫酸ガスで興廃している。

 一部植林で復旧しつつあるとはいえ、周囲に広がる山々がすべて
同じ状態。間近にその姿に接し、影響の大きかったことが知れる。

 愛宕下には、足尾高山の社宅だった平屋の長屋が幾つも残る。

 渡良瀬川に何段もの砂防ダムがかかり、その上に足尾ダムの
大きな堰堤が見えてきた。


 ダムの上は、仁田元川、松木川、久蔵川の3つの川が合流して、
渡良瀬川の源流になる広い河原になっている。


 ダム上流の道路横に「わたらせ川源流の碑」が立っていた。

 幅広い滝のように落下するダムの放流を間近に見ながら、大き
な吊り橋を渡り、足尾ダム堰堤下にある銅(あかがね)親水公園
に下り、芝生広場で昼食をした。


 もと来た道を古河橋まで戻って橋を渡る。さらに出川の小さい
橋も渡って、旧国鉄足尾線の廃線跡に上がった。

 向赤倉トンネル(約36m)を抜け、少し崩落したがけ地を注意
しながら進む。線路も枕木もしっかり残っていて、いまでも列車
が通れそう。

 次の向間藤トンネル(約211m)は、入口がふさがれていて
入れない。

 小さい神社の横を下り、精錬所社宅らしい建物の横から南橋
を渡って左岸の道路に出て、上間藤の家並みを南に進む。

 道路が廃線の線路を横切る手前に、間藤水力発電所跡の説明
板があり、直径1mという送水管の一部が残っていた。

 発電所は、明治23年(1890)に完成したもので、わが国初期
の水力発電所で、足尾銅山近代化を強力に推進する力になった
のだという。

 道路と交差したところから再び廃線跡に入る。少し草の伸びた
ところもあるが、通過には支障ない。

 シカの糞らしいのがあちこちに落ちていた。

 300m余りで営業中の、わたらせ渓谷鐵道の終点、間藤駅に
着いた。

 次の列車まで1時間半近くあるので、さらに2つ先の通洞駅
まで歩くことにする。

 線路の西側沿いに進み、田元からは線路の東側沿いの旧道
を抜ける。


 足尾駅近くに、古河鉱業の古河掬水倶楽部と呼ぶ、いわば
迎賓館にあたる建物が見えたが、寄らずに通過する。

 足尾駅構内には、旧国鉄のディーゼル車が保存されていた。

 さらに線路沿いの旧道を進む。足尾銅山発展の基礎を築い
た木村長兵衛の墓があるという宝増寺前を通過し、14時45分
に通洞駅に着いた。


 まだ待ち時間があるので、5分ほど先の足尾歴史館に入る。

 足尾銅山で使われた鉱山機械、足尾に関わる人物紹介、荒廃
地の緑再生プロジェクトの概要などを、ボランティアの方の説明
を聞きながら観覧し、今日あちこちで目のあたりにしてきた、足尾
銅山の歴史や背景などを、一層理解することが出来た。

 通洞駅15時35分発赤城行きで帰途につく。

(天気 快晴後晴、距離 14km、地図(1/2.5万) 足尾、歩行地
 栃木県日光市(旧足尾町)) 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

足尾銅山の痕跡と旧国鉄足尾線廃線跡を歩く

2006-10-31 23:02:46 | カントリーウオーク
 06年10月29日(日)

 夜半知らぬ間に雨が降ったようだが、朝は快晴になっていた。
朝食前のひととき、宿の周辺を散策する。

 キャンプ場背後の山に朝日が差し込み、朝もやが上がる。庚申川
の流れも朝もやに包まれている。


 朝食を済ませ、8時38分に国民宿舎かじか荘を出発した。

 宿の標高は830m。少し先で折り返した林道は、東側の備前
楯山登山口に向かって緩やかな上り坂が続く。


 ところどころにある色鮮やかなモミジの紅葉が、青空に映える。

 「熊が出るかもしれない」と事前に聞いていた今回の企画者・M
さんは、空き缶を4つつないだ熊除けを用意、それを引きずりなが
ら歩く。

 そばでは話しが聞きにくいくらいの音なので、熊も近づかない
だろう。

 「関東ふれあいの道」の道標辺りから、ススキが多くなった。
標高1000m位まで上がったところに「鳥獣観察舎」の東屋があっ
た。30分余り一気に上ってきたので小休止し、ススキの向こうに
広がる色づいた山並みを眺める。


 傾斜が緩まり、10分足らずで備前楯山(1271m)の登山口。
備前楯山はかつての足尾銅山の主要採鉱地。

 なぜ「備前」なのか気になっていたが、慶長15年(1610)、備前
国出身で当時の足尾郷の農民だった人物が、この山で路頭して
いる銅功績を発見したことから名付けたものだという。

 すぐ先が標高約1035mの舟石峠。駐車場があり、東から北側
の展望が開け、奥日光の男体山(2484m)上部が見える。

 周辺の山は、足尾銅山の煙突から排出された亜硫酸ガスの影響
がいまだ残り、岩肌がむき出し。足尾公害の影響の大きさを知る。


 峠の先は旧足尾精錬所に向かっての下り。ススキの間をジグ
ザグの林道が続き、どんどん高度が下がる。こちら側は、黒い実
の付いたハンノキが多く、紅葉はあまり見られない。

 右から沢音が聞こえて出川沿いとなり、カーブも少なくなった。
対岸の中腹にあったという古河鉱業の最初の直営抗で、足尾銅山
の拠点となったという鷹の巣抗の説明板が立つ。

 かなり下まで下ると、ヌルデの紅葉が鮮やかな色を見せていた。


 右手山すそに廃屋の建物が2、3棟残っている。明治17年(18
84)に開発された本山抗跡で、鉱業所、選鉱所、精錬所、火力
発電所、小学校などが設けられ、足尾銅山の中心として発展した
ところとか。

 足尾銅山の北部地域最大の集落が形成されたが、昭和38年
に閉抗されて以後、無人になったようだ。

 当時の社宅などの建物配置図やイラストが描かれていたが、
いまは全く、その面影をしのぶことは出来ない。

 発電所跡付近の木造平屋の屋根からは、雑草に混じって松が
2,3本伸びていた。

 旧国鉄足尾線のガードの先が旧足尾精錬所。鉄骨がむき出し
の精錬所構内が、足尾本山駅跡。

 間藤駅から足尾本山駅までの1.9kmは、旧足尾精錬所関係
の貨物専用線。昭和62年(1987)3月まで使われていたという
線路や信号機が、そのまま残っていた。

 古河橋を渡って赤倉バス停横に出る。上流に並行して、もとの
古河橋が残っている。

 明治23年(1890)暮れに竣工した橋は、翌年日本初の実用化
した電気鉄道の単線線路を敷設したという。現在は通行禁止で、
日光市指定文化財になっている。 (続く)


 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする