何度も言うことだが、オリンピック精神とか、フェアプレイとか、何故、日本人はこうも、「綺麗事のキャッチフレーズ」に弱いのだろう。
日本のスポーツ選手はオリンピックを信じ、そこを目標に、日夜、涙ぐましい鍛錬をしている。スポーツの精神は、人間の生み出した、あらゆる創造行為と同様、尊いものだ。
しかし、どの分野であれ、それが、何らかの組織によって「見世物」になると、創造行為は本来の創造の意義を失う。
もっとも、あらゆる創造行為と言うなら、「見世物」商売もまた、一つの創造行為には違いないが、これは芸術やスポーツと比べ、あくまで、金を稼ぐのが目的であり、食うための狩猟と同じことだ。
創造とは人類が成長するために必要な、試行錯誤であり、目的を持たない行為は、一見ムダに見える。そのムダを、見世物小屋の商品にすれば、有意義に見えるが、創造は商品価値だけに限定される。
美術であれ、文学であれ、美術展や文学賞となると、組織と審査員が決定する価値で選別され、逆に、そこからはみ出した価値や可能性は、無価値なものと決めつけられることになる。
これは、スポーツイベントも同じだ。勝ち負けのあるスポーツでは価値観など関係ないと思われるかも知れないが、ルールーを決めるのは、やはり見世物小屋の興行師だ。
純粋なものは、いずれ汚れる
古代オリンピック精神の復活をうたった近代オリンピックは、当初は確かに、高邁な精神で始まったかも知れないが、今や、完全に「見世物小屋」の商売だ。今や、オリンピックを経済抜きで語る人はいない。
商売は、農と武の徳川幕府が最も嫌ったように、物を作り自らの命を懸ける、士・農・工を食いものにする生き方だ。
他人のフンドシで金を稼ぐ、右のものを左にやって利ざやを稼ぐ、ハイエナか泥棒のような根性だ。(少なくとも徳川幕府はそう思った)
日本の文化が、「金儲け」を嫌うのは、徳川300年の武士文化によるものだが、これは、島国という、外敵に邪魔されない恵まれた環境で育まれたものであり、自己研鑽と相互信頼で成り立つ社会に、「銭」は不要だった。
しかし、他人を信じられない大陸では、金だけが頼りだ。金さえあれば、地位も力も手に入れることができる。
技など磨いている暇の無い大陸だが、金さえあれば技も手に入る。
その信念が、日本人から見れば、賄賂とパクリの「汚いやり方」、つまり、「商」の、泥棒ハイエナ根性としか映らない。
日本の中でも西の文化は大陸の影響が強く、この「商」の原理が浸透している。その商人のモットーは「汚く稼いで綺麗に使う」だが、綺麗かどうかは別にして、効果的な使い方に徹している。
ヨーロッパの貴族の道楽で始まったオリンピックは、結局は、世界の大原則である「儲け主義」に収まっている。
何から何まで金が物を言う世界の原理で動いていることは、今や論を待たない。
東京にオリンピックを再び招致しようというのも、結局は経済問題であり、カジノ建設と何も変わらない。
にもかかわらず、スポーツ団体あるいは日本人は、相変わらず精神的にとらえている。オリンピックは既に、日本人の思うような精神主義で動いてはいない。
昨日まで、韓国はテコンドーが競技種目から外れる心配をしていたが、フタを開けてみると、テコンドーが残り、代わりに日本が得意なレスリングが除外対象となっていた。
レスリング協会は、オリンピック精神の伝統レスリングは、切り離されないと信じていたが、まったく違う原理を突きつけられた。
一方、韓国サッカーの明らかなオリンピック憲章毀損に対し、IOCは「注意」だけで、事実上のお咎め無しだった。また、先の冬季オリンピックでも、不可解な採点が相次いだ。
日本や中国のように、自分の原理に拘る国は実に扱いやすい。
朝鮮半島のように、強国の狭間で鍛えられた国は、「生き残り」の技を徹底的に体得して世知辛い。北朝鮮と韓国は全く同一の民族であることを忘れてはいけない。国際組織において、韓国の進出は目覚ましい。
媚びずに惹きつける
日本人の夢見るような、オリンピック精神はとっくに死んでいる。
それでもまだ、日本人はIOCを信じ、東京にオリンピックを呼びたいのだろうか。
鎖国精神に基づく文化立国を目指す観点から、個人的には・・・
IOCの不条理を徹底的に糾弾して脱退し、日本にあらゆる競技施設を整え、各競技のワールドカップを毎年開催して欲しい。
ちょっとズレるが、相撲は日本だけの競技で成り立って、しかも内容的には国際化している。
柔道だって、外国に迎合するから、今回のような焦りに繋がる。日本本来のルールを貫き続ければいい。
外に押しつけない文化として、徹底的に護るべきだ。
「知術貿易」