魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

オリンピック

2008年04月29日 | 日記・エッセイ・コラム

「原始力」とはいえ、スポーツは人類の立派な文化だ。近代オリンピックは古代の人間性への「憧れ」に始まった。だから、理想はすばらしい。しかし、何事も、「理想と現実」は一致しないものだ。

古代の人間性を失った現代社会に、無垢な「夢」を持ち込んでも、それはたちまち、国家主義やマネーの餌食になる。
世界巡業の誘致合戦も、ただの物好きではない。

もちろん、現代では、音楽も文学も造形も、素朴な情熱としてよりも、商業主義として触発され成立する。
その商業主義の装置として国家があり、エネルギーとして民族主義が燃えるが、時には暴発し、国家装置を破壊することさえある。

少しでも古代オリンピックの精神に近づきたいなら、ギリシャ固定開催でいいはずだ。IOCなどいらない。競技種目もやりたいものをやればいい。そうすれば、各国の思惑や商業主義が働かなくなり、純粋な祭典が可能になるだろう。
それで、面白くないから廃るのなら、それはそれでオリンピック精神は汚されなくて幸せだ。

国と金のオリンピック
ワールドカップにせよ、オリンピックにせよ、近代国家とナショナリズムがあるからこそ刺激的なので、きれい事の本質は利害と競争だ。
現在のオリンピックは、スポーツ選手という戦士を戦わせる、利権獲得の戦いになっている。
民族や技術の優位性、総合戦力の優位性を内外に誇示する国家ブランド創りと集金効果。
オリンピック開催は、いわば、秀吉の大阪城築城だ。

一方で、戦士が、戦いで手柄を立てようと精進する気持ちは、いつの時代も変わりない。自己への挑戦と、名誉のためだ。
戦争を仕掛ける者と、戦う者の目的は、いつも異なっている。

「平和のために」と言って、戦争は始まる。
「平和の祭典オリンピック」には、平和を生み出す魔法のような幻想がある。政治は無縁だと、政治状況を無視する意見は多い。
しかし、近代オリンピックが戦いを収めた例は一度もない。

オリンピックが平和をうむのではなく、平和がオリンピックを可能にする。スポーツが平和に優先することはありえない。

オリンピックはむしろ、国家対立の意識を強化している面さえある。
勝ち負けの競技は、初めから闘争心の代償行為だからだ。
少なくとも、勝者の国旗掲揚は止めるべきだろう。

そもそも、古代の都市戦争と、現代戦争は異質のものだ。
古代オリンピックは、源平合戦の、那須与一の弓比べのようなもので、それ自体が戦争の一部であり、「いくさ」はロマンであり得た。

不名誉な「築城」
国家対抗競技は実際の戦争と同じで、戦い方にはその国の文明・文化があらわれるが、オリンピック開催の姿にもあらわれる。

北京はアジアで三番目の夏期オリンピック開催だ。発展途上国の自負の高揚と経済的跳躍台という点では、三者とも似たようなものだ。
しかし、各々、これほどカラーの違うオリンピックもない。
手前みそと言われようと、東京は平和とフェアという印象を残し、ソウルは強引と疑惑の印象を残した。(誘致、審判、薬物)

今また北京が、中華人民共和国の全貌を、聖火によって悲しいばかりに照らし出している。
経済的存在感よりも、軍事政権の正体を世界に露骨にさらしてしまったのだ。聖火リレーはまるで、裸の王様の帰り道だ。恥ずかしい姿でも逃げられない。
その上、世界中を五星紅旗で埋め尽くして嫌悪感を増殖させた。
必死になればなるほど、軍事国家の粗野で偏狭な醜態がむき出しになる。

ダライラマを恨めば、気は済むかもしれない。
しかし、古代帝政をそのまま一党軍事独裁政権に入れ替えたやり方では、現代に通用しないということを、悟るべき時が来ている。
ああ、中国4000年よ、どこに行く

オリンピック築城は、その国の本質を見せてくれる
東京大会が平和を表すことができたのは、戦後、いかに日本人が平和をありがたく思っていたか、ということだろう。