魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

私は見た

2012年01月06日 | 兄弟関係

中間児と話しをするとき、普通の人は、心地良くなるだろう。
ほとんど、自分の意見をさえぎられない。自分が言いたいことや不満を、本当に良く解ってくれる。『優しくて賢い、ほんとに良い人だ』と思う人が、ほとんどだろう。

しかし、人の本音や、心の動きを観察してきた人間にとっては、極めて疲れる会話になる。

こちらの意見を言うと、まず不必要に迎合的だ。さもなければ、沈黙して反応がない。さらに、少しでも中間児本人が、不利になったり、悪く言われたり、責任を取らされるような状況が見えると、ヤッキになって防戦を始める。

その防戦反応の仕方は人によって様々だ。やんわりと話を変える人、意地になってまくし立てる人、自分が責められていると感じて、間接的な否定をする人・・・
たとえば、「よく鳴く犬はうるさい」と言うと
「うちの犬は、知らない人が来ても鳴かなくて困る」と、わざわざコメントする。何も、おたくの犬の話をしているのではないのだが。

出方は様々でも、中間児に共通しているのは、自分が不利になることに極めて敏感だ。
そして、相対的に言えることは、人格や教養レベルが低い人ほど、激しい反応をする。逆に、賢い人は極めて用心深い言動になる。

賢い人の場合。さりげなく質問を返して、発言者の意見と意図を確かめる。そして何時でも反論できる用意をしておく。さらに、ちょっとした反撃をして、反応を観る。
また、自分の意見を言う時にも、話しながら、常にこちらの顔色を観察する。(目は正直だ)

賢い人には少ないが、反論の時、相手が確かめようのない証拠を論拠にする。先ほどの犬の話など、その犬が鳴くか鳴かないかを知らない人に対して断言する。
また、中には、霊が来ているとか、夢のお告げがあったとか、誰にも確かめられないことを根拠に、自分の意見を言い出す。

科学的論理性がある賢い人や教養がある人は、非論理的なことは言わないが、本や権威ある人の言葉を持ち出すし、せっぱつまると、「私は見ました」と突っ張る。

教養や人格により中間児の反応も様々だが、
そもそも、兄弟関係の組合せも多様だ。
中間児の原型の三人兄弟だけでも、性別により8通りもあり、さらに年齢差などが加われば、無限とも言える。
しかし、そうでありながらも、やはり基本的な傾向はある。

中間児は用心深さとプライド故に、他人の言うことを素直に受け入れることが出来ないが、さらに自分が主導権を握ろうとして、人の話をすべて否定する人もいる。
この傾向が最も現れるのは、兄のいる長女で、姉のいる長男は、逆に何でも受け入れる。

「一姫二太郎」が良いとされるのは、どうも、本当のことのようだ。ただし、この長男はグチっぽい。優しい姉への甘えからかも知れないが、口に出す出さないの差はあれ、中間児はいずれも不平分子だ。

兄のいる長女は、男の子の後に生まれた女の子だから特に可愛がられ、気位が高くなる。兄に頼りながら兄をバカにしても、誰にも叱られないし、兄と争って押さえられることも少ない。(親が兄を叱る)
そこに、下の子が現れることで、またバカにする相手が現れ、人に対して素直に対等で話せなくなる。

しかし、中間児の用心深さに要領の良さも兼ね備えているので、上に納まりたがる気位と要領の良さで、人のいい人達の間では一目置かれるようになる。

ただし、こうした傾向は、他人は認めても、当人は弱点としては、決して認めないだろう。意地になって反証しようとする。
そして、事実を認めないことこそが、中間児の弱点であり、客観的な証拠に基づいて争われる場では、極めてもろくなる。

この、不死身の中間児を撃墜する方法は、裁判などで公にするか、中間児の能力を逆手にとって、出所の分からない誹謗中傷をすることかも知れない。

しかし、何よりも、中間児の正体に気づくことが先決だが、大方の人は気づかない。やられるまでいい人だと信じているし、例えやられても気づかない。
そして、気づかないものは存在しない。 めでたしめでたし