魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

融通無碍

2012年01月26日 | 占いばなし

占いで人や時代を観る場合、個々の人生や事件の詳細にこだわらない。その事柄の持つ、意味や概観の「位相」を観ようとする。

それは、人生や世相の類型化であり、相対的な概念理解だ。
元来、占いは個人を占うものではなく天下国家を占うものだが、個人を占う場合でも、人生の類型パターン、タイプを応用している。

少しくどくなるが、絵画の出来は、角度や長さを測って良し悪しが決まるものではなく、基本手法の変形の組合せバランスによって決まる。
個々の人生も、基本パターンのズレによって吉凶が別れる。
同じ部品なのに、組合せバランスで、美形とそうでない顔になる。

何事も、基本パターンや基準値が、予想や判定の参考になるから、時代や世相も、まず類型パターンに集約して考える。
だから、何ごとも「類型化では語れない」とする立場とは、始めから次元が異なる。

一事が万事という言葉があるが、他にも、子は親の鏡、推して知るべし、など、論理学のような考え方が一般にも受け入れられている。
占いはこれに似ているが、これでもない。

融通無碍
あえて言えば、融通無碍という概念に近い。類型化する条件も融通無碍なら、応用も融通無碍に適用する。
ルールの無いところに原則を見いだし、原則を観ながら、無限の応用で考える。とりとめのない思考方法であり、人が見ればデタラメだ。

人生も歴史も、それぞれ似ているようで違うものであり、違うようでいて、同じものだ。
これと説明できるような法則はないが、それでも森羅万象は法則に従って動いている。
占いは、そういう心がけ、そういう視点で観るものだと思っている。

祇園精舎の鐘の声・・・
ゆく河の流れは絶えずして・・・

こういう無常観は、東洋独特の感性だと思うが、正確な対比では理解できない。非論理的ないい加減さがなければ実感できない認識だ。それが、逆に、科学的理解を遠ざけ、欧米に後れを取った。

しかし、森羅万象を、把握するには、少なくとも現在の人間レベルでは手に余る。経済の動きや運命のような、実体がない現象の正体を、科学的に把握できると考えること自体が、出発から間違っているのではなかろうか。

近年、仏教が見直されているのは、科学の最先端分野での、相対的な関係性の認識が、大乗仏教の哲学に通じるところがあるからだ、と言われている。
占いの認識も、あながち捨てたものではないかも知れない。