魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

頭を上げ

2012年01月12日 | 日記・エッセイ・コラム

気学九星の位置関係を表す方位盤は、通常の地図と180゜回転して天地・東西が逆になっている。初めて見た時は、慣れるのに相当時間がかかった。地図を見る時、同時に、逆転した位置関係を頭に描く。今では慣れたが、円高円安のグラフを見るより混乱する。

おそらくこれは「君子南面」の考え方から出ているのだろう。
ものを観て判定する偉い人は、陽当たりの良い南に向かい、影を後ろにして、書類などをよく見るためだろう。

その結果、神仏を拝む時は北に向かうか、西方浄土の西に向かって拝む。しかし、日本古来の太陽崇拝では日の出を拝むので、当然、東に向かって手を合わせることになる。

日本では、小さな日本列島が中心にある地図を見て育つ。西にアジア大陸、東に太平洋とアメリカ大陸、南にオーストラリアがある。

中国人の仏留学生がブログで、フランス人に、中国のことを説明する時、中国とは「真ん中の国」という意味だ、だから、地図の中心は中国になっているだろう。と話したら、
「それは中国の地図だから中国が真ん中に書かれているだけだろ」と、笑われた話を書いていた。

それぞれの国の多くの国民は、この笑われた留学生のような世界に暮らしている。「自国こそが中心だ」。そう思わなくても、自国中心の地図しか観たことがないだろう。互いに違う地図を見ているのだ。

コペルニクスより勇気が要る時代
地図だけではない。ものの見方、考え方というものは、自分が「当たり前」だと思っていることは、必ず、別の見方があり、どちらが正しいというわけでもなければ、間違っているというわけでもない。
だから、価値観が衝突したら、白黒を付けようとしても無駄だ。
第三の価値観を探る方が解決が早い。

今の世界。あらゆる価値観が衝突し、何も解決しない。
小さな例では、日本の与野党などもそうだ。どんぐりの背比べが白黒を付けようとするから何も解決しない。

世界は狭くなった。もう、国家の天下ではなく宇宙視点で考えなければならないグローバル世界だ。と言っても、現在語られているグローバル化は、国と国の関係として語られている。
これからの世界は、宇宙から観た地球。国家解消を前提とした、宇宙の中の地球として考えなければならない。

しかし、現実問題、世界の人々はこれまでの常識の中に生きている。
自分の地図を見ながら、島を争い、利権を争い、終いには、世界地図の地名まで自国に合わせろと、偏狭のゴリ押しをする国まで現れる。

自分の地図しか見られない人には、世界中に地図があることを知ってもらわなければならないが、それを強制することも出来ない。
頑迷な人に道を説くより、頭を上げて遠くを見渡し、遠くを見ている人同士が手をつなぎ、行く先を定める方が新時代の到来は早くなる。

この時代、このシステムはもうダメだと思う人は、いつも一割にも満たない。しかもその中で、実際に自ら動き出す人は、その一割にも満たないだろう。

改革は泥に咲く蓮の花であり、革命は泥田を洗い流す大洪水だ。
明治維新は幕末の泥田に咲いた蓮であり、ロシア革命は大洪水だった。
世界を変えるのは蓮の花だろうか、大洪水だろうか。


行燈頭領

2012年01月10日 | 兄弟関係

しるべ無き荒野に一族を導くには、長子的なリーダーシップが必要だ。
中国から日本にまで広がる長男偏重は、騎馬民族の伝統らしい。
古代の北方騎馬民族には、長男相続は自明の理だったのだろう。

余談だが、現代中国人は自分達を漢民族だと思っているが、実際は侵略騎馬民族との混血で、純粋?な漢民族はむしろ、現代中国人が蔑視、あるいは冷遇する南部周辺に、逃れ住んでいる。ややこしい話だ。

また、日本の長男偏重も、6~7世紀に入り込んできた、大陸の価値観と思われる。

人無き荒野では長子原理が有効だが、人間が増え、社会が安定化してくると、弟妹型の相互関係「おりあい」の方が重要になってくる。
古代であっても、社会が豊で安定してくれば、ギリシャのような民主的な社会が生まれ、社会混乱が起これば、英雄や専制君主が現れる。

近年では、前回の天王星→牡羊座の混乱時代に、英雄や独裁リーダーが現れたが、再び天王星が牡羊座にめぐってきた今、世界は大混乱に突入している。

民主主義はタテ型ではない。相互対等の弟妹型の原理だ。
経済環境が安定して巡航状態になり、社会の将来を考えなくても良い時代には、誰が何を言おうと社会が墜落することはない。
政治も、政局や儀式の「まつりごと」として、芸能娯楽の一つであれば良い。

しかし、前例のない状況が起こると、おもしろ芸人や、格好の良い首相俳優には何も出来ない。
劇場が火事になったら、片隅にいた、ただの観客が避難をリードしたり、ただの力持ちが英雄になる。
赤穂断絶の非常事態に現れた大石内蔵助も、昼行灯と言われていた。

弟妹型が集まっていると、日頃は賑やかで活気があるが、何か起こると、大もめにもめたすえ、外部の権威に頼るか、黙っていた長子に相談に行く。(長子はきれい事を言えない)

汚れ物の山
民主主義社会は無責任社会になりやすい。社会が行き詰まると、英雄を求めるようになる。始めから支配者のいないアメリカのような社会では、自分達が大統領を選ぶことで納得できるが、これは例外だ。
歴史的に支配者がいた社会では、支配者を倒すことを希望と思うから、その後に現れる支配者に過剰な期待をし、独裁者を生み出してしまう。

また、日本の議会制民主主義が何も解決できないのも、明治憲法には天皇が存在し、新憲法にはGHQが存在したからだ。
手の届かない支配者を前提に、「良きに計らう」ような政治は、無責任の集大成であり、行き詰まっても、何も変えることが出来ない。

橋下(長子)圧勝後、各政党は何とか取り込んで利用しようとしているが、既存政党・民主党のていたらくに、今やハッキリしたことは、既存の政治制度や政治芸人では非常事態に対処できない。
抜本的な日本改革以外には道がない。と言うことだ。

今日も、どこかの政党宣伝カーが「公平な福祉」とバカの一つ覚えで叫んでいる。今この期に及んで、福祉を言っていられる事態だろうか。

既存政党に唯一残された道があるとすれば、徹底的な規制緩和や公務員削減による景気刺激策だけで、それが無いなら、日本をもう一度、洗濯するしかない。


長男相続

2012年01月09日 | 兄弟関係

国を兄弟タイプで言えば、中国は長子だ。
長子は試行錯誤する。先ず、信念に基づいて突っ張るが、間違ったと思えば撤退する。正しいと思っても形勢不利と観れば撤退する。

ただし、弟妹型が何事も無かったように、その話題に触れなくなるのと違い、何らかの立場を作って(言い訳をして)撤退する。
この言い訳は他人に対してではない。自分自身の納得のためだ。

長子は他人にどう思われるかより、自分が惨めにならないために、心のバランスをとろうとする。
時には、相手が気の毒だと思い、時には、バカを相手にしても始まらないと思い、時には、これがみんなのためだと思う。
そして、その場では認めないが、後になると自分で反省し、次の行動の教訓にしようとする。

弟妹型は、失敗を無かったことにして、すぐ次のことを元気よく始めるが、長子は次の行動までに時間がかかる。
この結果、長子は同じ失敗を繰り返さないが、不可能と観るとその世界から離れてしまう。しかし、弟妹型は反省しないので、懲りないで同じ事を繰り返すが、先人を重視するので、そうしている内に、助け人が現れて達人になったりする。

長子は何事も自分で工夫して身につけるものだと思っているから、誰かに助けてもらっても喜ばないが、助けてもらった場合には、そのことを強調する。これは、自分が独自性を重視するから、他人の独自性を尊重せずにはいられないからだ。

一方、弟妹型は上から助けられるのは自然の恵みのように当然のことだと思っているから、助けてもらいたがるわりには、成果をすべて自分の手柄だと思ってしまう。したがって、誰の助けも借りずに一人で苦労して成し遂げたと強調する人が多い。

弟妹型が、政治家や経営者に向くのに対し、長子は研究者や技術者に向く。ただ、成果は要領の良い弟妹型の方が得やすい。
ハーバードの学生の80パーセントが長子だったことは、ペーパーテストの結果(要領)だけで評価されない、アメリカ式の進学システムが影響しているのだろう。

また、中国が、昔世話になった人間に礼節を尽くすのは、筋道論者の長子が現れている。(失墜した田中角栄を厚遇した)
逆に、その中国が、高速鉄道を自分の独自技術だと言ったのは、元来の現金さに加えて、長子の横暴が出たと考えるべきだろうし、そのことで失敗したことに、おそらく中国自身が強く反省をしているだろう。
(今度からは、もっと慎重にパクろうと?)

独自の道
長子は、どんな場合も、誰かが助けてくれるとは思っていない。
誰にも頼りたくない。だから見習うとは言っても、そっくりそのまま同じ事をする気はない。(高速鉄道事故にしても、そっくりそのまま見習っていれば、ああいう事故も起こらなかっただろう)

経済も政治も、それなりに常に独自路線だ。それが、歩みを遅くしたり、バカげた大失敗をする。
しかし、全く新しい状況には、独自性が生きてくる。

昔から長男相続が尊重されるのは、一族単位で動いていた昔は、リーダーは常に「前例のない事態」に立ち向かわなければならなかった。
初めての事態に立ち向かうには、ガムシャラの勝負根性では集団を危険にさらすし、相手が人間でなければ要領の良さも役に立たない。

集団には、智恵と創意、責任感のある慎重な判断が必要になる。
つまり、「長男相続」の真の意味は、集団の維持には、男女にかかわらず「長子」的生き方が必要だ、ということなのではなかろうか。


もう遅い

2012年01月08日 | 兄弟関係

今年になって、中国は尖閣問題を棚上げすべきだと言い出した。
2010年の尖閣事件は、前原元国交相の場当たりな無責任行動もあるが、中国の慢心の方が大きいだろう。

鄧小平の「?光?晦」策は、日本語で言えば「能ある鷹は爪を隠す」ということになるのだろうが、GDPが日本を抜いて、大方の中国人は、「キターッ」と舞い上がってしまった。

易の二進法を生んだ、二者択一思考の中国人にとって、同時多元的な思考は難しい。
白黒、勝ち負けで、考えるから、GDPで上になったのなら、日本より上だ、アジアの盟主の座を奪還した。そう思ったようだ。

そうした気持ちは、無教養な一般市民だけではなく、共産党の中枢部にまで及んで、もう、とても爪を隠しきれなくなってしまった。
アメリカには勝てなくても、古来の周辺国は当然、中華帝国に朝貢すべきで、黙って道を開けろと、「シナ海」の所有権を主張し始めた。

2000年の冬眠から目覚めた皇帝が、駅のホームで怒鳴り散らしているような、何とも滑稽な、恐るべき時代錯誤。
その本気の狂気に、ホームにいた人は、サッと身を引いて遠巻きにし、公安官のアメリカも駆けつけてきた。

さすがに、なんか変だなと思い始め、慌てて「なーんちゃって」と、大人しそうな態度を始めたものの、もう手遅れだ。
「アブナイ人」であることが、みんなに分かってしまった。

「尖閣問題を棚上げすべきだ」と、上から目線、指導的物言いで言ってみても、池のメダカの「これぐらいにしといたるわ」状態だ。

厄年は避けられない
惑星が自分と180°にいると「やり過ぎの失敗」をする。それが冥王星なら国運の厄年のようなもので、後半生に関わってくる重要な分岐点になる。

冥王星→射手座でアメリカが失敗した後、冥王星→山羊座で中国もきっちり失敗をしたようだ。国運に関わる冥王星の厄年は、42歳ではなく三倍の120歳だ。

まだ、中国国内では失敗に気づいていないだろうが、そのうち転んだ痛みで初めて気づく。
厄年で不調に気づいた人は、自分が老境に向かい始めたことを知り、それまでとは違った生き方を身につけなければならない。

アメリカは二大政党制に限界が来ている。中国はまだ10年以上はかかるが、一党独裁に限界が来るだろう。

ただ、東洋のタテ型思考や血統主義からすれば、一党独裁が崩れても、合衆国のように纏まれるとは思えない。
中国には賢い人も多いが、そうでない人も多い。


私は見た

2012年01月06日 | 兄弟関係

中間児と話しをするとき、普通の人は、心地良くなるだろう。
ほとんど、自分の意見をさえぎられない。自分が言いたいことや不満を、本当に良く解ってくれる。『優しくて賢い、ほんとに良い人だ』と思う人が、ほとんどだろう。

しかし、人の本音や、心の動きを観察してきた人間にとっては、極めて疲れる会話になる。

こちらの意見を言うと、まず不必要に迎合的だ。さもなければ、沈黙して反応がない。さらに、少しでも中間児本人が、不利になったり、悪く言われたり、責任を取らされるような状況が見えると、ヤッキになって防戦を始める。

その防戦反応の仕方は人によって様々だ。やんわりと話を変える人、意地になってまくし立てる人、自分が責められていると感じて、間接的な否定をする人・・・
たとえば、「よく鳴く犬はうるさい」と言うと
「うちの犬は、知らない人が来ても鳴かなくて困る」と、わざわざコメントする。何も、おたくの犬の話をしているのではないのだが。

出方は様々でも、中間児に共通しているのは、自分が不利になることに極めて敏感だ。
そして、相対的に言えることは、人格や教養レベルが低い人ほど、激しい反応をする。逆に、賢い人は極めて用心深い言動になる。

賢い人の場合。さりげなく質問を返して、発言者の意見と意図を確かめる。そして何時でも反論できる用意をしておく。さらに、ちょっとした反撃をして、反応を観る。
また、自分の意見を言う時にも、話しながら、常にこちらの顔色を観察する。(目は正直だ)

賢い人には少ないが、反論の時、相手が確かめようのない証拠を論拠にする。先ほどの犬の話など、その犬が鳴くか鳴かないかを知らない人に対して断言する。
また、中には、霊が来ているとか、夢のお告げがあったとか、誰にも確かめられないことを根拠に、自分の意見を言い出す。

科学的論理性がある賢い人や教養がある人は、非論理的なことは言わないが、本や権威ある人の言葉を持ち出すし、せっぱつまると、「私は見ました」と突っ張る。

教養や人格により中間児の反応も様々だが、
そもそも、兄弟関係の組合せも多様だ。
中間児の原型の三人兄弟だけでも、性別により8通りもあり、さらに年齢差などが加われば、無限とも言える。
しかし、そうでありながらも、やはり基本的な傾向はある。

中間児は用心深さとプライド故に、他人の言うことを素直に受け入れることが出来ないが、さらに自分が主導権を握ろうとして、人の話をすべて否定する人もいる。
この傾向が最も現れるのは、兄のいる長女で、姉のいる長男は、逆に何でも受け入れる。

「一姫二太郎」が良いとされるのは、どうも、本当のことのようだ。ただし、この長男はグチっぽい。優しい姉への甘えからかも知れないが、口に出す出さないの差はあれ、中間児はいずれも不平分子だ。

兄のいる長女は、男の子の後に生まれた女の子だから特に可愛がられ、気位が高くなる。兄に頼りながら兄をバカにしても、誰にも叱られないし、兄と争って押さえられることも少ない。(親が兄を叱る)
そこに、下の子が現れることで、またバカにする相手が現れ、人に対して素直に対等で話せなくなる。

しかし、中間児の用心深さに要領の良さも兼ね備えているので、上に納まりたがる気位と要領の良さで、人のいい人達の間では一目置かれるようになる。

ただし、こうした傾向は、他人は認めても、当人は弱点としては、決して認めないだろう。意地になって反証しようとする。
そして、事実を認めないことこそが、中間児の弱点であり、客観的な証拠に基づいて争われる場では、極めてもろくなる。

この、不死身の中間児を撃墜する方法は、裁判などで公にするか、中間児の能力を逆手にとって、出所の分からない誹謗中傷をすることかも知れない。

しかし、何よりも、中間児の正体に気づくことが先決だが、大方の人は気づかない。やられるまでいい人だと信じているし、例えやられても気づかない。
そして、気づかないものは存在しない。 めでたしめでたし


赤くなる

2012年01月04日 | 兄弟関係

昔、ガレージセールをやっていた人が話していた。
パートで手伝いに来る、ちょっと美人の新婚の若い主婦が、品物を整理しながら
「わー、これ、うちのと同じだ
と、よく言うので、楽しんでやってくれている、と思っていた。
何しろ、まめでよく動く働き者だったので、大変助かっていた。

ところが、在庫整理をしながら、無くなっている商品を調べていると、ほとんど、彼女が「うちのと同じだ」と言った商品だった。
彼女の家に遊びに行くと、確かにその商品がある。

何の証拠もないことでもあり、波風も立てたくないので、黙っていたが、それからは商品管理には気をつけるようにしていた。

あるとき、屋外用の小型収納庫を買って店の裏に置いていたら、
「わー、これ、うちのと同じだ
と、また言う。
しかし、いくら何でも、縦横90㎝×90㎝奥行60㎝もあるような物を、空とは言え、持って行くわけ無いだろう。と思っていた。

ある朝見ると、収納庫が無くなっている。念のため確かめに行くと、彼女の家の横に、「同じ」のが置いてあった。

話してくれた人は、
「まさかとは思ったけど、本当にやるとは思わなかった。あの細い小柄な身体で、持ち上げている姿を想像すると、可笑しくて」と、また思い出し笑いをしていた。(彼女はワンボックスに乗っていた)
適当な理由を付けて辞めてもらったが、その後も普通に親交は続いた。

朱に交われば赤くなる末っ子
話してくれた人は長女で、「同じだ」の彼女は、三人姉妹の末っ子。
念のため断っておくと、チョロマカシは兄弟関係とは全く関係ない。
定かではないが、高校時代の交友関係で憶えたテクのようだ。

兄弟関係が影響したのだとすれば、環境や成り行きでどのようにも染まる末っ子の無節操だろう。
この、末っ子の無節操こそが、環境次第で、末っ子の大成功にもつながる。

長子は頭の切り替えが遅い。中間児は用心深い。末っ子は即座に変わる。臨機応変はリーダーたる者の心得の一つだ。
ただし、本当のリーダーは「君子豹変」のことだ。ただ態度を変えるのではなく、変える理由を理解し、原理そのものを変えることだ。
(易経:革、上爻 「君子豹変、小人革面」)

原理を理解するのは長子だが、優柔不断で臨機応変ではない。
リーダになるには、長子は臨機応変になり、末っ子は原理を理解できなければならない。

件の長女が、波風を立てたくないからと黙っていたのは、自分さえ気をつければと考える、独立の長子であり、喧嘩するより清濁併せのむ方が自分(の原理)が乱されないで済むからだ。

また、「同じだ」の末っ子は、問題が起きない(抗議されない)から、うまくいっていると思っていたのだろう。もし抗議されたら逆ギレし、さらに、周囲の人に「泥棒呼ばわりされた」と吹聴して回っていただろう。末っ子は状況次第だから、事実よりも、みんながどう思うかこそが現実だ。一人の正論より、多数の賛成の方が重要だから宣伝上手になる。

占い人類学


柿のタネ

2012年01月04日 | 兄弟関係

新春早々、笑える記事があったので一言。

朝鮮日報2012/1/1の記事で、
「韓流は1500年前の日本ですでに始まっていたのです」
日本の韓民族史探訪第28回
と言う記事があった。既に28回で、毎回同じ視点で書かれている。

要は、古代日本に教えてやった物、古代日本が略奪していった物が、日本にあり、その韓国文化を巡るツアーなのだそうだ。この参加者は教員であり、こうした考え方は韓国の常識になっている。

日本では、渡来人が文化をもたらしたことは誰でも知っている。しかし、重要なことは、百済、高句麗の国を追われた難民が、高度な技術を持って大挙、日本に逃れてきたが、その後、朝鮮半島に帰ったことはなかった。
つまり、日本人、日本の文化こそが、その末裔と言える。

日韓が家族のように相まみえることができるのなら、それは、全く素晴らしいことだ。
しかし、自分たちが叩き出した者が苦労して花開かせた文化を、元々、柿の種は自分のものだったという「サルカニ合戦のサル」のような都合の良い論法で、日本に接してくるなら、根本的に受け入れることができない。
「お前の女房はオレが昔遊んだ女だから、嫌いじゃないよ。仲良くしよう」と愛想のつもりで言われても、親しくしたいと思うだろうか。
これは嫌韓とか親韓とか関係のないケジメ、筋道論だ。

百済、高句麗滅亡の時以来。日本こそが百済であり、高句麗なのだ。
いや、そんなことは断言できることでも立証できることでもないが、サルカニ合戦を挑まれるなら、あえて言わざるを得なくなる。


仕切直し

2012年01月01日 | 日記・エッセイ・コラム

新しい年が来た。
喪中の人ばかりで、「おめでとう」と言う人がいない。

今や、完全な高齢化社会で、どこかで誰かが死んでいる。
もともと、常にどこかで誰かが死んでいるのが普通だったが、衣食住や医療の向上で、そう簡単には死ななくなった。
しかし、いずれ死は訪れるから、年末払いのように、まとまってやって来始めた。

この調子だと、常に誰かが喪中であり、誰も新年を祝うことは出来なくなる。もうそろそろ、考え方も仕来りも、改めてはどうだろう。

人が生まれようが死のうが、時は巡り、新年は毎年やって来る。
人が悲しみ喪に服すことと、新しい年を迎えることとは別問題だ。
新しい年を迎える意味は、一陽来復の季節とともに、一年を始める心の準備をすることだ。農業であれば、喪に服しているからと言って、春が来れば種を蒔かないわけにはいかない。

前年に区切りを付け、新しい年を迎え「おめでとう」と声を掛け合って決意する。
本来、世界の新年と個人の悲しみは、同列ではないのだが、平和な時代には、前を見ずに後ろを向いて嘆くゆとりがあった。

しかし、世の中が喪中ばかりになって、皆が嘆き悲しんでばかりいたら、社会は衰退する。阪神でも、東日本でも、大災害の被災者は明るく気丈に振る舞っていた。本当に大変な事態ほど、嘆き悲しんでばかりはいられないのだ。

戦時中、マリアナ沖海戦で、空母に乗っていたという人が話していた。
一人、二人が死んだ時は、英霊に敬礼と、全員甲板に並んで水葬にしていたが、戦闘が激しくなり、甲板が死体だらけになると、とにかく早く片付けろと、片っ端から海に放り投げた。

日本艦は一見、無事に航行しているように見えるが、注水につぐ注水で、かろうじて転覆しないでいるだけだ。借金漬けに高齢化で、社会はますます厳しくなる。そんな時に、暗い話題ばかりを盛り上げていては、修羅場の日本が自滅する。

ご大層な」でも言った、弔う心より儀式に熱中する人がいる。
喪中のハガキに「妻の伯父」の喪中につき・・・と書いてある、
そもそも、その妻さえ見たことがない。
こういう人は、もちろん、年賀状も熱心に出すのだが、もしかすると、この人は、今後一生、年賀状を出せないかも知れない。

元々、正月も新年そのものではなく宗教儀式であり、その意味では正月は喪に置き換わるかも知れないが、正月も喪も近年ますます簡略化されている。古い仕来りが現代では不都合になってきているのだ。

しかし、だからと言って、悲しみの気持ちが薄れているわけでもなければ、季節が失われたわけでもない。宗教儀式より、真心と現実だ。
悲しみは悲しみとして抱きながらも、一年の行動の仕切り直しの新年は、互いに「おめでとう」と、確認しあっても良いのでは無かろうか。