魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

ガンマン

2012年01月20日 | 日記・エッセイ・コラム

アホ言うもんがアホ」でも言ったように、人は自分の知識や経験からしか他人を考えることができない。

だれでも、人の行動や態度を見て、喜んだり怒ったりするが、相手が本当のところどう考えているかは、決して解らない。たとえ、どんなに親しい仲でも、多少のズレや思い違いはある。

だから、理解できない相手や、腹の立つ相手ならなおさら、いきなり怒ったりせず、必ずしも容認できない考えではないかも知れないと、許容の余地を残しておくべきだろう。

人には色々な感じ方や考えがある。違う理由で同感する場合もあれば、同じ理由で反対の考えを持っこともある。
そう心得て人と接していれば、トラブルは起きないはずなのだが、実際は、相手がそれを心得ていない場合の方が普通だ。

だから、トラブルが起こると、理解力のある方が引くことになり、偏狭で無理解な方が主張を通してしまうことになる。これは、知的問題も同様で、見識ある人は、偏狭な主張にも一理あると引いてしまう。
これは「泣く子と地頭には勝てない」であり、無知・・・ハッキリ言えば、バカの考えの方が正しいことになってしまう仕組みだ。

集団内での議論で過激な意見が通るのもこれであり、集団イジメも同じ理由だ。客観性の無い偏狭で感情的な価値観が、多様性を圧殺する。

国家も人も
人間同様、同じ環境内でものを考える国家的価値観も、他国の事情を理解できない。
「人の振り見て我が振り直せ」自分達がどれほど相手国のことを理解していないかを知るには、相手国がどれほどこちらを理解していないかを知れば解る。

中国の日本に対する論評を見ていると、日本を知る必要を全く感じていないぐらい、良くも悪くも独善的だが、これは情報云々の問題ではない。国が大きいから、歴史的に、他国に興味がないのだろう。
また逆に、韓国のように、他国ばかり気にしながら、すべてを恣意的に見る国もある。
中韓の言い分を聞いていると、おかしいほど本音が解る。非難理由こそが、彼らの本音だからだ。(覇権主義と非難する中国など)
これに比べ、寄り集まりの国アメリカは、始めから多元的で、自らの大国の横暴も、承知の上での戦略的横暴だ。

一方、日本ほど外国を良く知っている国はないだろう。
「最果ての国」の意識は古代からあったようだから、遠くの国の事情を常に関心を持って知ろうとしてきた。
それが、明治維新の対応の早さや、戦後の経済復興の早さになったのだろうが、これが災いしてか、逆に「知ってるつもり」の独善を生み、第二次大戦や近年の貿易現地化の遅れを招いた。

日本が2000年後のアメリカだとすれば、それは老人アメリカだ。
老人は何でも解っていると思っているが、身体は付いていかない。
老人の世界は若者には未知の領域であり理解できないし、老人も、それを解らせる気力はない。自分だけが納得した世界で生きている。

これを書いていたら、三浦友和が「東洋の魔女」は「なでしこ」の比ではないと言って、若者から大批難が起こった話があった。
様々な理由から、三浦友和の言う通りだと思うが、現場に居なかった若者にそれを「言っても無駄」だ。年寄りはそう思ってしまう。

日本が、説明不足で世界に誤解されることが多いのは、うかつなことを言って議論に巻き込まれるより、一人静かに納得していたい。
奥ゆかしさとも陰険さとも言われるが、そういう、プライドの高い消極的な文化があるからだろう。

こうした、教養老人的な日本が、たまたま成功したために、鼻息の荒い新興国のターゲットになりやすい。前を行く日本の粗探しをし、敵愾心を燃やし、模倣をしながら、足を引っ張る。

これはイジメられる優等生の宿命なのかも知れない。優等生が優しさの気配りや遠慮ばかりしていると、反って危ない。
多くの名うてのガンマンが、若造や卑怯者に後ろから撃たれたように、偏狭な野心にはもろいのだ。


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