魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

加工食品

2012年01月19日 | 日記・エッセイ・コラム

以前、スーパーのお総菜の味付けが濃いことを書いたが、世の中に出回っている加工食品全体の方が、もっと問題だ。
安全性とか添加物とか賞味期限の問題ではない。

社会や時代と味覚には、相性がある。なぜそうなるかは、要するに環境と慣れの問題だが、これを語り始めるときりがない。
実際に出回っている食品について、素朴に考えてみたい。

判断基準
昔、自然派のアメリカ人が、ケンタッキーやマクドナルドなんか、人間の食べる物じゃない、と言っていた。近年では日本でもこういう人が増えて、何かと言えば有機農法とか手作りクッキーとか、おしゃれLOHASな人々に持てはやされる。

それはそれで良いとしても、時として、こういう流行りは単にグルメブームの裏返しだったりする。実際に自分の感性で判断するのではなく、ある種の宗教的生き方だ。

日本の原発は最先端で安全だから「最も賢い選択」と言っていた人が、突然、原発全面廃止を叫び始めるように、スポットライトのステージ上の猫だましに反応し、洗脳されて付いていく。それと変わらない。

テレビや政府がどう言おうと、自分の知識と素朴な感性に照らし合わせれば、安全な原発など無いし、逆に、今すぐ原発を止められるはずもない。
原発事故が有ろうと無かろうと、始めから原発廃止に向かっていれば、今ごろは自然エネルギーに替わっていたかも知れない反面、事故があったからすぐ止めろと言っても、電気は、自然エネルギー機器を開発するにも必要だ。感情的な判断は何も見えなくする。

時代の価値観
原発のような重大問題ですら、他人の言葉や「常識」に付いていく。
衣食住などは、誰でも自分の判断で決めているが、その判断基準は時代の環境、流行や常識だ。

どんなに暑くなっても、腰ミノに革靴で電車に乗る人はいない。
しかし、もし、猛暑続きにこういう人が現れると、世の中にだんだんこういう人が現れるようになり、それを有名人が真似たりすると、俄然、腰ミノがファッションになる。最初の人は奇人であり、最初に真似る人はファッションリーダーだ。(もちろん腰ミノは例え)

味覚もこれと全くかわらない。変わった味でも、美味いと感じた人が「美味い」と言って人に薦めると、何人かの人が共感し、新体験を吹聴する。その内、人が美味いというものを美味いと感じる人が行列を始める。もちろん、暑い時の腰ミノのように、何らかの必然が背景にある。(例えば、甘い物が溢れると辛い物がウケる)
豚骨スープや激辛などもその例だ。

企業が、マーケティングで仕掛ける場合も、アサヒドライが古いキリンラガーに勝ったケースなど、社会状況を把握して提案すれば成功する。ところが、そのアサヒが、トップになると、俄然、保守に回ってしまった。提案した「味」に囚われ、「提案」したことの勝利とは考えなくなってしまった。

食べたくない、選挙と同じ食選び
時代や社会で味覚も変わるが、目に見えない流行は捉えにくい。
昔当たったからと言って、名前におぼれて新しい時代の好みに敏感でなければ、「名物に美味いもの無し」と言われてしまう。

滋賀の鮒寿司ほど極端ならまだ潔い。京都名物の千枚漬けなど、古い時代に好まれた「ダダ甘い」物を名前だけで売っている老舗があれば、塩辛いだけの奈良の奈良漬けより、京都の甘い薄味奈良漬けの方が美味いということもある。

また、スナック菓子など、大量販売のための保存優先で、軍隊の携行食よりも不味いような物を、当然のように売っている。
企業の都合で出回るこれらの食品が、美味い不味いの話題になるたびに、鶏小屋のブロイラーの悲哀を感じて、情けない。
そう思いながら、今日も、新発売のパッケージを破っている。

結局、本当に美味いものは、空きっ腹に食べる、自分の手作りだ。