魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

パクる

2009年01月08日 | 日記・エッセイ・コラム

今、「パクる」「パクられた」と言えば、「盗まれた」「マネされた」と言う意味で使う。

もともと、「パクる」「パクられる」と言えば、「捕まえる」「捕まった」の意味だった。
「捕縛」(ホバク)の意味で、役人が「おとなしく縛(バク)につけ」と、「お縄を頂戴しろ」と同じ意味で言った。
だから、警察の上司は部下に「「パクってショッ引いてこい」と言う。

これが犯人の立場になると「パクられる」ことになる。
「♪身から出ましたサビ故に、ヒゲのポリ公にパクられて」と言う歌もあった。
60年代の学生運動では、反体制のムード的な感情移入で、ヤクザ映画がはやり、「デモに行って警察にパクられた」のような言い方が一般化した。

このころ一般化した言葉では、「ピース」「パクる」「ヤバい」などがあるが、いずれも、もとの意味では使われなくなった。

「ヤバい」は「ナウい死語」でもあげた。「ピース」はベトナム反戦運動のアメリカから流行ったが、もとは第二次大戦中のチャーチルが「ビクトリー」の「V」サインとして二本指を広げたのが始まりだ。
勝利がピースになるのは逆のように思えるが、戦いに打ち勝って平和をもたらす。平和運動に勝利しようの意味だった。
今は写真を撮るときの「おきまり」ポーズか、知らない人とのご挨拶に使われる。もともとが連帯感を表すサインだったからだ。

「パクる」の場合、捕まるが、なぜ、マネするになったのか。
語感的には何となくそんな感じもするが、関係ないとする説もあり、確かに理屈では繋がらない。

1970年頃から40年経った。
この間、ゲームの先駆けとしてヒットした「パックマン」は、大口のパックマンが、エサを求めてパクパクと飲み込んでいくゲームで、超有名になった。

何でもパックン、パクパクと飲み込む行為が「パクる」となり、他人の物でも飲み込んでしまうのを「パクる」と言いだした。
それが、すでに聞き慣れていた捕の「パクる」(確保)と一体化して、飲み込んで「自分の物にしてしまう」ことになってしまった。
そこから、マネして自分の物にしてしまうのを「パクりだ」と言いだした・・・そういうことではなかろうか。

なお、魯生のパクパクは、パクリでもパックンでもない。むしろ、吐き出し。

時代の感性は、時が経てば忘れられてしまう。
言葉も、実際使っていた人達でさえ違う意味で使うようになる。
さんまが直接的な行為の意味で使い始めた「エッチ」は、昔は単に「スケベ」や「嫌らしい」の意味だったが、今はそういう使い方をしない。

「感覚」は揮発性だ。終戦当時に、日本人がどんな思いでいたのか、憲法九条はどんな気持ちで受け止められたのかは、開戦の時、日本人がどんな気持ちになったかと同じように、想像できるようでできないことなのだろう。