魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

横町のご隠居

2008年10月28日 | 日記・エッセイ・コラム

縁もゆかりもないが、どういうワケか、北野武とは常に意見が合う。27日も、タックルで年金のことを、ややこしすぎると言っていたが、このブログでも前から言っているように「老後を路頭に迷わせません」の一点で良いのだ。

北野武が映画作りを始める以前に、映画について論じているのを聞いて、同感し、『これはすごい、映画が解っているなあ』と感心して、ことあるごとに「タケシはすごい」と話していたら、お笑い芸人に何でそこまで入れあげるのか、怪訝な顔をされた。

その後、映画作りを始めて、賞をもらったりしたら、世間はみな、御大扱いをするようになった。
そうなると今度は、素直に「タケシはすごい」と言いにくくなった。
タケシは好きでも、「世界の北野武」だから好きなわけではないからだ。それに、お笑いとしてはそれほどおもしろいとも思わないし、タレントや芸人としては滑舌が悪すぎる。

タケシに共感するのは、おそらく反骨精神だろう。
末っ子のハチャメチャや、マザコンのせいもあるかもしれないが、
ストリップ小屋でのお笑い修行や、軍団を率いての殴り込みは、常に自分の殻を破る挑戦であり、おそらくは、自分の常識やモラルを超える実践なのだろう。
お笑いは常識の裏返しだが、タケシの基本はきわめて常識的であり、すべてが、その重圧から逃れるための発想と行動のように思える。

権威や秩序の意識にとらわれるから、常にそれをぶちこわそうとする。

江戸っ子
タケシの良さはそれだけではない。江戸っ子の素直さと偏屈さだ。
地方出身の有名人のような、立身出世という中央コンプレックスが全くない。
TVに出たりすることは、町内会の演芸会ぐらいにしか思っていない。

上下意識がないから、偉ぶったり恐れ入ったりしない。
東京出身のほとんどの有名人がそうだ。
中には親が地方出身で、かなり勘違いな人もいるが、大方は、暑苦しい存在感がなく、淡々としている。小賢しさがなくお人好しだ。
ことに、タケシのような下町育ちになると、立て前や体裁とはえんのない本音と人情がむき出しになる。

同時に、地方の人間のような、立身出世の権勢欲がないから、政治に意見はあっても、やる気はない。