今回のノーベル賞受賞者は誰も、あまり嬉しそうにしていない。
様子から窺うに、おそらく、あまりにも長く待たされて、ノーベル賞というものに、愛想を尽かしていたのだろう。
「しょせん、あんなものは俗世の空騒ぎ。自分は科学者なのだ」という誇りで生きてきた。
「ノーベル賞のための科学者じゃあないんだ」という誇りは、
自分は観客のためのスポーツ選手じゃないんだという誇りだ。
一生懸命やっても負けたらビール瓶を投げ込む観客。
勝って当然と期待をして負けたらバッシングをする国民。
そんな無責任な観客の重圧のために
期待の責任を果たして泣いた北島。期待を果たせずに自殺した円谷。
「科学者は俗人に誉めてもらわなくて良いんだ。自分の使命は科学につくすことだ。」
そう思って、生きてきたのに、「今更なんだ!」
自分のことは腹に決めていても、同じ立場、あるいはそれ以上の恩師への無念には我慢できなかった。
『自分は良い、しかし、南部先生に無いのはひどいじゃないか』
益川氏が南部氏への思いに思わず涙したのは、北島の涙と同じ、
積年の無念と忍耐への、やり場のない感涙ではなかろうか。
そう思うと、単純に「スゴーイ」などとは思えない。
むしろ、自分たちをダシに権威ぶったり、人気取りをしたり、得意になったりする、世間への侮蔑と怒りに同情し、もらい泣きしてしまう。
それでも、社会人としての責任を果たそうとしていることに、改めて尊敬の念がわいてくる。
(受賞者の社会的責任→0709「ありがたや」)
ところで、
今回の受賞者が、名古屋ー福井ー北京都のラインに関係していることは、やはり、魚座時代の現象と言える。
「愛知」でも、名古屋は魚座と考えたが、双児・ダブルでもある。また、「愛」とか「福」も魚座と言ってきた。
このところ名古屋の目立つことが多いし、岐阜、福井も多い。
福井県はオバマ旋風とか、「ちりとてちん」に加え、共稼ぎ、育児環境などでも脚光を浴びている。「越」の国の地震が続いているが、福井も越前。
魚座の「境界」という点では
名古屋も境界地域だが、福井も境界地域だ。(当然、岐阜も)
※「ちりとてちん」を「とてちりちん」と書いていたことに気づき赤(^^;)w