魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

オキアミ 2

2009年05月28日 | 日記・エッセイ・コラム

要職にあった人物が、不正を追及されれば、一方的な非難の大合唱が起こり、死ねば急転直下、不正が不問に付される。
死がすべてを超越する理由になる。
そんな、ミソクソ一緒の社会を外から見れば、バカげて見える。

しかし、金権政治や増税問題で国民の批判を浴び、崩壊寸前の自民党が、大平首相の突然の死により、「弔い選挙」の大合唱で圧勝した。
あれから30年も、自民党は生き延びた。

皇太子夫妻二人が殺されて始まった第一次大戦は、4千万人の死傷者を出すことになった。

命は尊い。しかし、死というエモーショナルな出来事に目を奪われ、集団が道を誤ることもしばしばある。
弱い動物が群れるのは、犠牲によって、群れを守るためだ。
もちろん人間は、シマウマやヌーではないが、一人も犠牲者がいない社会など無い。

一人の犠牲者も出さないと、口で言うのは簡単だが、群れて生きる動物は、何らかの犠牲を前提にして群れている。
病死が減り、最長寿社会が生まれた時には、膨らみきった風船のような危機が迫ってくる。
群れから遅れた幼い子供をライオンから守るため、群れが協力して救える時もなくはない。しかし移動を止めれば集団は飢えて死ぬ。

皇太子が殺されて、戦争が起こったのは、国のメンツがツブされたからだ。共同体への挑戦を放置しておけば、枠組みの破壊を容認することになる、と感じるからだが、死のショックは大きい。状況が違うとはいえ、もし、大津事件でロシアの皇太子が死んでいたら、どうなっていただろう。

死亡というセンセーションには、問答無用の感情行動が起こる。
911に対して、アメリカは始めから貧困対策のような賢明な行動をとることはできなかっただろう。しかし、多くの死者を出し、興奮が冷めてみれば、むしろ逆の行動の方が、有効だったのではないかと、解ってくる。

生と同様に、死ほど日常的なことはない。にもかかわらず、死と聞いただけで思考停止するのは、自分の生に引き当てて、重大事と感じるからだ。その自分をも含むはずの、マスの認識が消えてしまうからだ。

歌謡曲の歌詞に、死や自殺を扱うのは、作詞家としては安易すぎる、下の下だが、ほとんど必ずヒットする。

情に浸るための歌謡曲ならそれで良いだろう。
しかし、集団や世界を考える時には、かぎられた死や、犠牲の悲劇に目を奪われて、それよりもはるかに重大な「滅び」を選ぶわけにはいかないはずだ。


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