魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

胆力外交

2015年03月15日 | 日記・エッセイ・コラム

中国人は、どうも、自らのことを遊牧民族と自覚しているらしい。
孔子の何十代目かの子孫と自称する、孔某という人が、それを前提に中国人について書いていた。
日本人が自らのことを、江戸幕政の人民と考えているようなもので、現在の中国人は狩猟遊牧民の清朝に支配されたことから、価値観が相当に遊牧的だ。

農耕民は植物に栄養を生産させるが、狩猟や遊牧は、人間と同類のほ乳類に栄養を生産させそれを取り入れる、つまり、食べる。

農耕民は人間と植物をハッキリ別けているから、人間や動物は同類で、犯してはならない者と考え、信頼が信頼を生むと考える。
しかし、遊牧民は人間も動物も、状況次第、立場次第で単なる餌になる。昨日まで可愛がっていた羊や豚を、さばいて食べる。食べるか友達かは、その時の自分の都合次第だ。
だから、逆に自分が餌にされないための、警戒心や付き合い方のテクニックを持っている。

この基本的なスタンスの違いを、互いに理解しない。農耕民は、先ず信頼を考えるが、遊牧民は先ず警戒を考える。
遊牧民から見れば、農耕民は実に素直な羊だ。餌を与え優しくし、言うことを聞かなければ叩きつければ良い。あまり言うことを聞かなければ、さばいて食べてしまえば良いだけだ。
遊牧民同士なら、互いのテリトリーを認め合い、時に争ってもあまり深入りはしない。ただし、相手が完全に弱まれば、テリトリーを奪う。

中国古代は農耕文化だったが、幾たびか遊牧民に支配されるうちに、遊牧文化が相当入り込んでいるようだ。日本が知り、良しとして取り入れたのは農耕文化であり、必要に応じて去勢したり、てん足をしたり、面従腹背する文化は遊牧文化だ。

羊の民
中国の餌につられて、ノコノコと集まって行き、「信頼に基づき」自分たちが養ってきた技術(栄養)を提供した日本を始めとする欧米の企業は、すっかり食べられてしまった。
遊牧文化の末裔である欧米人は、始めから、警戒しているから、転んでもただでは起きないが、生粋の農耕民である日本人は、骨の髄までしゃぶられる。

日独仏の鉄道技術を吸収した中国は、鉄道でも世界征服を目論んでいる。
日本の鉄道産業は驚いて焦っているが、独仏は「やっぱり」ぐらいにしか思っていない。
仮に、中国の鉄道が世界中を走るようなことになったとすれば、必ず、返し技の腹案があるだろう。
互いに「餌」にならないためには、相手に餌を与え、何らかの見返りをとり、バランス関係を保つ。それが遊牧文化の流儀だ。

戦時中、ナチスドイツは、日本と同盟しながら、裏では、中国軍に武器を売っていたし、英国は、有名な三枚舌外交で、今日の中東の混乱を招いた。騙されるのは、騙す奴より騙される方が悪いのが、遊牧文化の大人の常識だ。

外交は、信頼ではなく、利害のバランスをとる知恵と自己責任だ。
欧米の個人主義は一神教によるものだが、その一神教は遊牧文化の産物だ。
中国の冷徹な現実感は、農耕民が長い歳月、それを学んだ結果だろう。逆に、欧米方式は遊牧民が農耕方式を学んだ結果のように思える。
中国には根底に情があり、欧米には根底に冷徹さがある。

日本の白人嫌いや迎合はコンプレックスだが、妙に肩を並べて、同じように自己主張しなければナメられると考えるのも、また、コンプレックスだ。
遊牧文化をよく体得した上で、孤塁を守る勇気と自信、胆力が必要だ。
イラク介入時に反対したフランス。アメリカの意向を無視して中国のAIIBに独自に対処する英国。アメリカ一辺倒の日本に、できる芸当だろうか。第一、常任理事国入りをこい願うこと自体、既存に従う追随主義であることが解っているのだろうか。

 


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