魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

斜陽の国

2012年10月05日 | 日記・エッセイ・コラム

子供の頃は、大人の話を聞いていると、ひどい差別があった。
様々な職業や地域に対して見下し、「偉い人」に対する、憧れや尊敬を前提にした会話が交わされていた。
学校で習う平等とは矛盾する、大人達の会話を聞いていると、腹立ちや疑問を感じた。

半世紀以上経った今、当時と比べれば、素晴らしく平等で、差別のない時代になった。封建的な時代からの社会制度が消えて、昔の人の持っていた差別意識の根拠が薄くなった。

ところが、それと反比例するように、マスコミやアニメなどの社会文化の中に、先輩後輩意識や、古い社会制度を前提とする差別意識の掘り起こしが一般化してきた。
過剰な敬語や、ひざまずき接客などの過剰サービスも、当然のようになった。

社会制度としての差別は減少したが、文化としての差別意識はむしろ強くなった。
アメリカナイズで、個人の対等関係が強くなり、社会的な階級が減った分だけ、日本人の「タテ型思考」の儒教意識が、ゆがめられた形で噴出してきている。

階層や職業など、ハッキリした立場の上下がなくなったことで、無理に上下を付けようとして、反って上下関係に敏感になり、前を見ることより、左右や後ろを見ることに神経を奪われ、冒険心が失われ、閉鎖的で向上心のない、閉塞社会になった。

登る目標
一頃、流行った「韓流ドラマ」は、半世紀前の日本社会にあったような、階級社会を前提とした差別感情に基づいている。今の日本社会では理解できない環境だが、古い時代や保守的家庭で育った人には、すんなり感情移入しやすい話だから、それなりにウケた。

今、日本の若者が保守化していると言われる。海外留学や海外赴任はしたくないそうだ。職場では出世したくない人が増えて困っている。
企業は成功のための勝負より、失敗しない手堅い戦略しか打てない。斬新な商品が出ないかと思えば、シャープのように韓国のマネ戦略で失敗する企業も出て来る。

こういう状況を見ていて、ふと、思った。
情けないことだが、差別社会こそがハングリー精神をかき立て、一か八かの冒険心を育てるのではないか。
差別の残っていた時代の日本は、高度成長を果たし、若者は海外に飛び出していった。

中国や韓国から、次々と成り上がり者が出て来るのは、実際にハングリーな環境があることに加え、差別意識が厳然と存在している国だからではないのだろうか。
ランクがあると、人は少しでも上に登ろうとする。

浅ましい成功か、上品な衰退か・・・
そう言えば、近年、やたら、「品格」とかが持て囃されていた。


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