魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

表裏一体(2)

2011年07月04日 | 日記・エッセイ・コラム

親が死ぬのは特別のことではない。
むしろ、子に先立たれる方が不自然であり、昔は、「親に先立つ不幸」として、死んだ子が悪いとされた。もちろん、死んだ子に責任は無いのだが、生き残った親への慰めと、軽々しく死んではいけないという戒めがある。

多くの偉大な宗教は、自殺を禁じている。哲学としての宗教の目的は「生きる」ことであり、生きることを知るために、死を語る。
しかし、これを取り違えて、死を目的にしてしまう人もいる。

中には、ギリギリの修行で死ぬ人もいるが、これは死を目的にしていたわけではなく、生を追求した結果だから無意味ではない。
精一杯、生きる過程で死ぬとすれば、無駄死にではない。

「死」は、決して目的ではないが、そこに向かって「生き」ていることに気づき、「生」を考えるには、先ず認めなければならい事実だ。
そして、あらゆる立場、状況において、迷い無く「生」に専念できるようにするのが宗教の価値だ。

だから、恨みや妬みや後悔のない人、迷いのない人、感情に囚われない人には、宗教は必要ない。
だが、感情に囚われない人などいない。怒り、悲しみ、喜び・・・感情こそが、生のエネルギー源でもある。エネルギーの制御は、原発だけではない、人間こそ難しい。

エネルギー制御を日々勤めていくことこそが、死ぬまで止むことのない修行であり、それを菩薩道という。

こうした修行は、何も、山に籠もって滝に打たれたり座禅を組んだりするだけが方法ではない。日常にあって、朝から晩まで、日々自己と対話し、問い続けることにある。

むしろ、喧噪渦巻く濁世にあってこそ、自己制御の必要は大きくなる。
市井の何でもない人こそ、真の求道者でなければならない。
そのことに気づいた凡夫こそが、菩薩ではなかろうか。

凡夫にさえなれぬ、犬人間にはそう思える。

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