魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

聖職

2007年09月08日 | 日記・エッセイ・コラム

昔、聖職というものがあった
戦前の日本では、教師、警官、司法官などをそう呼んだ。
国家社会を維持していくために欠かせない職業として、皆に尊敬され、そのプライドを持って、ふさわしい姿であろうと心がけた。

本来、聖職とは宗教のマネージャーや代表者の地位であり、その人達のことを聖職者と呼ぶ。
宗教は信者がいて成り立つ。一つの世界観を皆が信じ、それによって集団が維持されていく時、その理想を維持するのが聖職者だ。

戦前の聖職も、国家という世界観を皆が信じ、挙国一致のエネルギーを支える柱として、自他共に敬虔な存在だった。

平成の今日。聖職は完全消滅した。つまり、国家を支える柱が無くなった。その結果は見ての通りだ。
そこで、もう一度、昔の日本に戻さなければという意見が、あたかも正論のように風靡している。

確かに、過去には美しい秩序があった。だから、その風景を語れば、同じ事が再現できそうに聞こえる。
しかし、時代は変わった。世界情勢も地球も変わっている。挙国一致という夢も消えた。今や、グローバル化、超国家、世界集約に向かって巨大な波が押し寄せている。
19の春には帰れないのだ。

近代国家宗教と、古典宗教が入り乱れて争う現代。すべての安寧は、世界の人々が共通に信じることのできる世界観でもたらされる。
今、おぼろげながら浮かび上がりつつある世界観は地球生命だろうか。
自然と共に生きること、この意識に近いのはアジアであり、仏教であり、そして、神道だ。必ずしも大和の神道と言うことではない、アメリカ原住民にも同様の感性がある。

科学と自然信仰とが融合できるとすれば、その両方を持ち合わせる日本は、おそらく一番近いところにいるだろう。
逃げず、驕らず、日本ならではの潜在感性を、日本人自身が真摯に見つめ直せば、世界に貢献できる日が来るかも知れない。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿