外交べた
島国日本は外交が苦手だ。
実際、できることなら貝になって、鎖国を続けていられたら、どんなに幸せだっただろう。幕末に来日した外国人達が、日本人の幸せそうな顔に驚いたという。
それでも、開国以来150年、押し寄せる変化にどうにか対応し、ここまでやってこられたのは、複層的な日本文化の適応力だろう。
日本は吹きだまりの国だ。盆栽と箱庭の国であり、島の鎖国に生きてきた。相手の力を引き込めば強い柔道の国だ。土俵から出れば負ける相撲の国だ。
歴史的に、この島から出かけて行ってろくなことはない。
海外貿易で成功している現在でも、基本ノウハウはこの島にある。
海外に拠点を移したり、海外方式を取り入れた企業は日本企業としては破綻する。
世界の掠奪経済に対抗するには、もう日本から出ないことだ。
今さら鎖国はできないが、スイスのような生き方はできる。
鎖国の江戸にあっても、しっかり海外情報は押さえていたように、外の情報を徹底的に研究し、なんと言われようと出ていかない。
うかつな経済大国になって、野獣の餌食にならないように、
コアラの顔をしたヤマアラシになろう。
手を出せば危険だが、手を出さない限り誰が見てもかわいい
そんな国で居続ければ、どこかが危害を加えようとすれば、他のどこかが助けてくれる。
幕末に日本が生き延びたことを、日本人が偉かったと思うのは、身の程知らずというものだ。そう思い上がった結果が敗戦だ。
確かに、幕末日本の対応はすばらしいものだったと思う。しかし、それは日本が海に守られていたうえ、幕藩連合政権の複層的な力関係が幸いしたからだ。
そして、何より重要なことは、日本が憧れの島ジパングであったことだ。
実際、当時の日本の所有財産は金銀にくわえ、人心文化も魅力的だった。日本にきて触れた日本人への好印象もあっただろうが、欧米人には、東方見聞録の夢のジパングの先入観は相当にあったと思う。
今日でも、ヨーロッパ人には特別な日本観が存在する。
そんな魅力的な日本を、誰でも手に入れたがったが、そのことも幸いした。列強が牽制しあう中、日本という土俵に引き込み、巴投げで交わすことができたのだ。
日本は攻めには弱いが、守りには強い。
これから日本は、ソフトランディングをしよう。
もう、近代帝国主義のまねごとは止めて、規模の拡大より、得意の「質の向上」を目指そう。
日本の人口は古来、4000万が上限と言われている。自給自足を基本として、少子化に合わせた経済・社会システムを作り、ノウハウの輸出、文化の輸出、観光と外交の場を提供しよう。
それは、ただ、日本人が日本の風土を愛し、生活を楽しんでいれば自然に生まれてくるものばかりだ。
日本は他人ごとに口を挟む習慣も能力もないのだから、どう言われようとマイペースを心がけよう。
目的を手段に
憲法九条と核廃絶は、平和の手段であって目的ではない。
戦後六十年、あれこれ言われているうちに、話が逆転してしまっている。
平和を目指すことと、紛争解決に軍事力を行使しないこととが、同じ問題のように言われて、そんなことは不可能だと信じられるようになった。
憲法九条が平和の神様かのような、YESかNOかの宗教論争になっている。
九条信者も異教徒も、存廃より、世界平和への具体的な道筋を議論するのが先だろう。
被爆国日本はそれゆえに核廃絶の説得力を持っている・・・
という思いこみが、むしろ限界なのではないか。
「核は非道な兵器」と言う前に、人道的な兵器というものがあるのだろうか。核の悲惨の立場からだけ何を訴えても、同情しか生まない。
戦争はルールの通用するスポーツではない。戦争という狂気に至ればどんなことでも起こる。声を大にして叫ぶべきは平和不戦であって、核被害はその物証として初めて意味を持つ。
核がその規模と影響、核散の危険において、他の兵器とは次元の違う破壊性を持っているということは解るが、戦争より先行する理由にはならないはずだ。
参*いつも大変だ
P.S.
これを書いた後、恥ずかしながら、初めて知ったのだが、今月、「2077日本鎖国」という映画が公開されるそうだ。内容は、ここで考えたこととは全くかけ離れて、むしろ逆のようだが、グローバリズムの中での日本の意味という点では、原点を一にしているのかも知れない。観てみたい。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます