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占いという もう一つの眼

自ら差別

2024年09月13日 | 日記・エッセイ・コラム

近頃、なぜか「差別された」と煽り立てるメディア記事が多くなったような気がする。
ことに、原爆に関する欧米のニュースや、スポーツでの不利などを始め、海外在住者の逸話など、欧米からアジア人が差別されたと取り上げられる話が目立つ。
常に思うことだが、差別を論う人自身の深層には根強い差別意識がある。自分自身のタテ型序列思考に当てはめ、何事も先ず、どちらが上か下かに着目する。

これは、アジアの秩序思考の伝統で、戦後しばらくは日本社会にもタテ型秩序、差別意識が残っていたが、戦後の混乱とアメリカナイズ、それに続く経済成長で日本が世界に認められるとともに、国内の差別意識も対外コンプレックスも消えかけていた。
ところが、バブル崩壊後の不況停滞の中で、偏差値や学歴主義が成長し、同時に、関西芸人による序列の布教、宇宙「軍」やスポーツアニメの序列、白馬の王子様や玉の輿など、世相文化として「タテ型秩序」が自然に復活していった。先輩、後輩がうるさく言われるようになり、偏差値序列が社会基準になり、宝塚や少女漫画のお姫様から、韓国ドラマの王宮物語まで、階級物語が流行るような時代になった。
格差を論ずること自体が、階級を肯定していることにさえ気づかなくなったのだ。

30年続いた経済停滞の中で、経済地位の低下とともに敗北感が潜在化し、日本人のコンプレックスが、「本当はスゴイニッポン」や「クールジャパン」などの自慰行為に定着していった。その結果、中韓に見られる植民地時代からの欧米コンプレックスのような視点まで持つ人が、日本にも現れてきたらしい。
特に、メディアにおける欧米の差別批判の煽りを見ていると、日本人はここまで情けない根性に落ちぶれたのかと、暗澹たる思いにかられる。

東西の差別意識
一方で、欧州のスポーツ界では差別問題がよく話題になり、選手やファンが有色人種を動物扱いしたり、東洋人をつり目で表現したとして処罰されたりする。そして、それに対して差別された側が怒ったり、東洋メディア、特に韓国メディアが騒ぎ、近頃は日本のメディアも同じように騒ぎ始めた。
韓国の反応は韓流でいいだろう。しかし、日本のメディアまでが追随、同調する様は情けない。メディアとは一体どんな人たちなのだろう。

韓国と比べれば、中国は欧米を蔑視し、日本も明治維新までは大陸や欧米に、憧れはあっても劣等感は無かった。中国との違いは、中国が「相手を利用する」とあくまで上から目線なのに対し、日本は上下ではなく「他人の良いところを見習う」好悪の気持ちで来た。中国は多人数兄弟の長子の目線であり、日本は一人っ子目線だ。両者に共通なのは、差別される立場の、下から目線が理解できない。
これに対し、韓国は古代より下から目線で、日本の遣唐使に対し新羅の方が上だと席次争いを仕掛けたが、これは下の立場の朝貢国としての順位争いで、域外の日本には朝貢の意識は無かっただろう。

欧州での、差別排除動向は、それ自体が欧州人の根底にある差別の反映だが、彼らの葛藤に便乗し「差別はけしからん」と騒ぐのは、差別を容認し、自ら差別されることを認めることになる。
韓国のサッカー選手が日本に対してサルのジェスチャーをして、韓国内で批判されたが、日本側には何の反応もなかった。その選手が旭日旗を見たと言い訳したことで起こった旭日旗排除運動の方が、むしろ、日本人を実際に困惑させた。

日本人をサル扱いにすることは韓国内の常識かも知れないが、日本人にはその前提がないから反応しなかった。まさに、差別反対は自分の中の差別意識から始まる。
古今東西、自分たちの基準で始まるのが差別だが、その意識が無い他者には意味が無い。だから、相手が自分を差別してきても、それが、狭視野で愚かな行為であることを笑えばいい。それに対して怒るのは相手の差別世界を認め、自分を否定することになる。
具体的な不利益があり、逃げられないのであれば、戦うしかないが、先ずは相手の無認識を静かに気づかせることも必要だ。そのどちらもしたくないのであれば、ニコニコと笑っておくか、第三者に解る皮肉を言えばいい。
東洋メディアは欧米の差別葛藤事件を、上から目線で笑えば良いのだ。

差別に怒ることは、自ら進んで差別されることになる。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」
(ルカの福音書)