サッカーは文化だ。
森保一監督はまたもドーハで、蛇に睨まれた蛙のように、イラクに翻弄された。
イラクの選手を見ていて、30年前を思い出した。あの頃、イラク選手はすぐ大層に倒れ、倒れっぱなしになった。
今回のイラクは強気で攻めてきたので、昔のような至る所での「ダイ・イン」は見られなかったが、それでも終始、大げさなジェスチャーが目に付いた。
近年、シミュレーションのイエローも増えたせいか、あまり見かけなくなった戦法で、イラクも中東全体もレベルアップしているから、そんな姑息な手段に時間を費やすより、正面切って戦った方が効率的だと解っているのだろう。
だが、それでも文化体質は表れる。とにかく、一々大層なジェスチャーでアピールしようとする。
近頃、ハイレベルの試合ではあまり流行らないから、日本選手はこの感触に戸惑い、微妙に狂っていったのかもしれない。外から観ていると、なすすべもなく敗れたように見える。不思議な光景だった。
ゴールキーパーの未熟とか、作戦や対応の失敗とか、色々技術的なことが言われているが、サッカーが文化対決であることの意味を、もう一度思い出しても良いのではないか。
どんな戦いも、戦力だけで勝敗が決まるものではない。徳川の大軍が真田に翻弄された例が日本人には解りやすいが、世界の戦史を観ても、案外、強大な軍が負けた歴史は少なくない。第一には強大な軍の傲りがあるが、型が完成しているほど崩せない。一つ崩すと総崩れになる。大軍がゲリラに勝てないのも、相手の正体がつかめないからだ。
正攻法では強い集団も、細部の崩しを受けると無力化する。
喧嘩大会
何事も中東の手口には正体がない。騎馬軍団のモンゴルなどと同じ、ネットワーク組織で戦い、大きな組織をつくらない。状況に応じて騙しを積み重ね、一歩一歩食い込んでいく。これは中国のサラミ戦術と同じで、方針より現実、契約より情実の、古典的な取引であり、つまりはヤクザやマフィア同様の、契約より情がらみの約束の方が重い「裏」の世界だ。
日本人は欧米式のルール、契約社会になれてしまっているが、これは現実無視の神との誓い、つまりは人間世界の勝手な取決め、極論すれば、机上の空論の世界だ。
この立前の「表」社会に対し、神のいない中国と長く付き合ってきた中東は、人間のルールなど、ただの転がっている石、情況の一部に過ぎない。
ルールは利用するものであって守るものではない。
このことは、欧米人も本音として解っている。欧米人が、状況に応じてルールを作り直すのに対し、表面的に見習って取り入れた日本人は、契約やルールを天然自然の理のように受け止め、身を委ねてしまう。
日本人は東洋人として自然を神として崇めるが、中国人のような「天」ではなく、天を「天皇」のような人為的な次元で受け止めるから、人為的なルールを崇拝する。
一方、中国の「天」は自然そのもの、結果の現実そのものが崇拝の対象であり、イスラムの「神」も根底は東洋的な「結果が全て」の、神の思し召しのような気がする。
サッカー「アジア大会」の難しさとは、まさに、欧米文化のスポーツが、アジアでは喧嘩になってしまうことにある。ルールは守るものではなく、勝つために利用するものになる。
相手が怪我をすれば、当然そこを攻める。それが非難されるなら、あたかも気遣うふりをして押さえつける。喧嘩に欧米式の理想などない。戦場に戦犯など存在しないのが東洋だ。
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