魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

心の金持

2010年10月10日 | 日記・エッセイ・コラム

民族や国家など、人為的な幻想に生きている限り、人類は不幸だ。
領土だ、国益だと、争うのは、本当に、無駄なことだと思う。

しかし、隣村と殺し合いをしていた時代は、人類史的にはそれほど昔のことでもないし、ジャングルの奥では、いまだにそんな暮らしをしている人々もいる。
それどころか今、この時代でも、昨日まで文明的な暮らしをしていた人々が、ある日突然、古代信仰にとりつかれて、殺し合いを始める。

他人事ではない。日本の中にも、火遊びをしたい人は少なくない。

現代文明を極めた、この日本においてさえ、原始の香りが漂っているのだから、ようやく現代文明を手にしたばかりの人々が、古代思考にとりつかれているのは、当然のことかも知れない。

古代人が、富と科学力を持てば、民族や国家という縄張り暴力装置に使うことしか思いつかない。

「金持ち喧嘩せず」と言うが、昨日まで食うや食わずだった人々の頭の中は、奪い合うことしかない。
つまり、富があっても、心が貧しいままの人を「成金」と言う。

手負いのオオカミ
いわゆる育ちが良い、生まれながらの金持ちは、むやみに喧嘩を仕掛けない。守るものがあれば、失うことを恐れる。他人と争わないために共存共栄を図ろうとするのは、我が身と財産を守りたいからだ。

ところが、ハングリー精神のままの「成金」は、争わないことが理解できない。生きることは闘争だと信じている。
金持ちの善意も、「スキだらけのバカなやつだ」としか思わない。
いわば、手負いのオオカミだ。どんなに優しくしても噛みついてくる。
もちろん言葉など通じない。

日本という国は、おそらく難民の寄り集まりでできた国ではないかと思うが、思いがけない豊葦原瑞穂のパラダイスで、長い時間をかけて、心の「金持ち」になった。
乱れる度に、「和をもって尊しとなす」人や「欣求浄土」を求める人が治めて、浄土の教えを行き渡らせた。

その金持ちの子、日本は、黒船ショックで捨て身となり、慣れぬ喧嘩をしてみたが、結局、大怪我をして、あらためて喧嘩嫌いになった。「もう喧嘩はしません」は、日本人にとっては有り難いことだった。

「本当は喧嘩嫌いの日本」を知らない「成金」達は、日本が自分達と同じことを考えていると思っている。
不幸なことに、日本が彼らの前に現れたのは、日本が最も日本らしくない時だった。また、そうでなければ現れることもなかった。

65年以上経っても、日本は彼ら自身を映し出す鏡として、ますます憎まれている。何を言っても何をしても、噛みついてくる。

国家や民族はいずれ無くなる時が来るとしても、悲しいことに、今は、手放しで抱き合える時ではない。勝手な思い込みで手を出せば大怪我をする。

去年、犬に噛まれたが、悪いのは犬ではない。自分の不注意に罪がある。


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