魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

目覚まし

2021年07月29日 | 日記・エッセイ・コラム

オリンピック開催を反対していた蓮舫が、金メダル祝福ツイートをしたと、ネット民が批判したそうだが、スポーツとオリンピックは別問題だ。
オリンピックというビジネスモデルが、スポーツを利用していることに気づかないから、コロナ・オリンピックのような事態を招く。

今行われているのは、オリンピック精神とは何の関係もないスポーツ大会で、スポーツ大会そのものは成立している。
一方で、ビジネスとしての興行は、儲けが無くても、違約料を取られないために、「やったこと」にせざるを得ないから、これはこれで成立している。
ただし、世界の人々が集う平和の大会、オリンピックは、残念ながら存在していない。
したがって、現在のスポーツ大会の選手を応援し、祝福することには何の矛盾もないはずだ。

アスリートが目指すところ
蓮舫の場合、この状況下での反対であって、オリンピックそのものへの反対ではないだろう。
しかし、志ある政治家ならば、世界の興行師のカモになるような、オリンピックそのものに反対すべきで、当然のことながら、それに代わる世界的スポーツ大会のビジョンを打ち出さなければならない。
平和の祭典オリンピックというが、古代オリンピックとは初めから様相が違っていた。ポリス国家ではない、近代国家間の時間とお金と交通・通信を前提とした、産業革命パラダイムのイベント、そして、ビジネスだった。

しかし、この環境は20世紀末から大きく変わったのだから、例え、同じスポーツビジネスであっても、根本的に変わらなければならない。
そして、ビジネスなのか平和の祭典なのかも、一から考え直す必要がある。
日本人は騙されやすいから、平和の祭典の美辞麗句をすっかり信じ込んでいるが、これぞまさに「たてまえ」であって、コロナが暴いたのは興行師の正体であり、「大転換」を悟る重大な教訓とすべきだろう。日本人にとっては敗戦で得た教訓と同じだ。

オリンピックをスポーツ大会と考えれば、21世紀には、物理的に一堂に会する前提を捨てるべきだろうし、平和の祭典と考えれば、高校野球の甲子園のように、固定開催にすべきだろう。
古代オリンピックにこだわるなら、本家のギリシャとするのが順当だが、スポーツ大会としての平和ビジョンを持って、日本が世界スポーツの甲子園になると名乗り出るのが、日本の政治家のすることだ。環境的にはアメリカだろうが、平和憲法と抱き合わせなら、日本も可能だ。四季があり南北に長い日本は、夏冬あらゆるスポーツも可能だからだ。
コロナは新しい夜明けに、「目覚めよ!」と鳴り響く、嫌な目覚まし時計なのだ。
そろそろ、起きなければ・・・