魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

文化権現

2021年07月15日 | 日記・エッセイ・コラム

アメリカで大注目の大谷翔平は、振る舞いでも注目されているそうだが、ゴミを拾ったり、脂チェックのような嫌なことにニコニコと応じたりして感心されている。
もちろん大谷個人の資質である、マメで愛想が良いことが際立っていることも事実だが、ほとんどが、日本人なら当たり前のことで、まったくパフォーマンスなどではない。

サッカーの試合で、日本人サポーターがゴミ拾いをすることが感心されると、中韓のサポーターは、汚い日本人の点数稼ぎパフォーマンスだと揶揄した上、自分たちもゴミ拾いをやって「見せた」。当然、続かない。
動機も、文化も異なるからだ。
八百万の神が棲む日本文化では、トイレにも神様がいるように、野球選手には野球場にも用具にも神様が宿り、商売人にはお客様が神様であり、サポーターは観覧席の神様に敬意を払う。

また、日本に浸透した仏教は日常を修行とし、求道を八百万の神の前で行うように捉えている。学校教育で掃除をするのも、その精神を体得することであり、その中で育った日本人なら大なり小なり、それを日常として自然に行う。
また、嫌なことをニコニコと行うのは、和を以て貴しとなすの教えが、日本の伝統になっているからだ。
さらに、大谷の場合、脂チェックに怒らないで笑うのは、投球に没頭している個人から、競技状況全体に立ち返る瞬間に、「そうだった、そうだった」と、忘れていた自分がおかしいと思うからだろう。
自分を全体の一部として捉える日本人としては、個人主義の欧米人ほど自分の試合だとは考えないから、立場を忘れることはなく。邪魔されたとは思わない。何よりも和が大切だ。

日本人は、大谷の態度が特に素晴らしいとは気づかないが、スゴイ選手の持つ文化的特質が個人的美点として映るのだろう。英語を話すアメリカ人を見て、スゴイ頭が良いと錯覚する日本人がいるようなものだ。
大谷を通して、日本文化を知ってもらう良い機会のように思えるが、ヒロイズムの欧米人は、どうしても個人の資質と思いたがるだろう。