魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

食と人間

2021年04月25日 | 日記・エッセイ・コラム

”飯”もの
先回の、「要するに」で言い忘れたが、五条のイオンには、流石にテーブルマークのアサリ飯があった。大きいだけのことはある。
ただ、ダイエーを吸収したイオンは、ダイエーの末期症状に似てきた。
その昔、ダイエーは「何でもあるが、買いたい物が何も無い」と言われた。この意味はよく解らないが、巨大チェーンの血流の悪さ、不活性化のことだろう。
社会的な生産流通システムと一体化した巨大スーパーは、流通の論理で商品が並び、客のニーズに鈍感になる。アサリ飯も冷凍食大手の商品だ。
今回のコロナで、大方のスーパーは黒字だったのに、イオンは大赤字を出した。巨大モール中心のビジネスモデルも災いしたのだろうが、これも、社会インフラ化の結果だろう。

ところで、アサリ飯だが、改めて食べると、意地になるほどのことでもなかったが、やはり美味い。だいたい、貝飯はどれでも美味い。松江の駅弁「赤貝飯」も美味かった。宍道湖七珍ではないものの、赤貝飯も神話出雲の名物だ。
居酒屋でホタテの貝焼きを食べながら、日頃まじめなカナダ人が、「これで一晩はいけるよ」と冗談を言った。
貝はタンパク質の塊みたいなもので、同様に、たこ飯やイカ飯もそれぞれの味わいがある。ただし、菌も繁殖しやすいので食べ残しの食中毒には要注意だ。

学生の頃、炊き込みご飯を作っていたら、江戸っ子に「田舎モンは何でも”飯”にするんだよな」と言われたが、白米と混ぜご飯は、ハンバーグとハンバーガーの違いみたいなものだろうか。
ハンバーガーと言えば、日本の伝統は「米」によって成り立っているが、戦後は米(国)によって変化して、米の消費量が減っている。一日中、米を口にしなくても平気な人が多くなった。
30年前、家族でマクドナルドに行ったお父さんが、それが夕食であることを知って、夕食くらい米が食べたいと癇癪を起こしたそうだ。その子ども達も既に40歳を超えている。

信頼と盲信
一汁三菜が頭にある米好きの人は、炊き込みご飯は、ちゃんとした食事ではないと思うらしい。解らないでもない。そこまでの米好きではないし、”飯”ものが好きだが、赤飯ではちゃんとした食事の気がしない。食習慣とはそんなものだ。
口にするものは危険が伴うから、誰でも基本的に保守的だ。だから、気持ちよく食べる人が好感を持たれるのは、食事を提供した人が信頼されているような気がするからだろう。
見知らぬ地で食事を提供されたら、何が何でも食べなければならない。まずくても美味しいと言わなければ、危ない。

食事を美味いと思うのは、多分に慣れと思い込みによる。珍味だグルメだと、食べたこともない物を食べるのは、社会的に信頼されている情報を信じるからで、乳離れの子どもが母親の与える食事を疑わずに食べるのと同じだ。日本食ブームも情報と信頼による。
これから、食糧需給が逼迫すれば、昆虫を食べるしかないと言われ、多くの人が顔をしかめるが、こんなものは、情報の流し方一つで、ブームさえ起こるだろう。
エビやカニは好んで食べられているが、今、大発生しているバッタなどは、そのうち天の恵みになるかも知れない。