魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

喜び比較

2021年04月15日 | 日記・エッセイ・コラム

スマホに来たニュースは、「松山英樹がアジア人初のマスターズ優勝!」と告げていた。
よほど嬉しいのは解るが、ゴルフに興味の無い人間には、コンプレックスの方が強く伝わった。

アジア人というならタイガーウッズや大坂なおみは何人だろう。ネイサン・チェンやタイガーウッズをアメリカ人とするなら、松山英樹も大坂なおみもあくまで日本人で、あえてアジアを言いたいなら、「アジア人初」ではなく「アジア初」だろう。
アジアの国々に属する人が初めて優勝したと言いたいのだろうが、アジア系の人はアメリカにもいる。
さらに、すでに女子は優勝しているのに、これを忘れているのは、女性問題をも含んでいる。

移民の国のモンゴリアン
アジア人はアジアにいるという大前提は、200年以上昔の人種観だが、その固定概念が、アジア自身の差別とコンプレックスの一因でもある。
東アジアは、今でも大多数がモンゴリアンで、具体的な違いに慣れていないから外見だけで差別する。アメリカの差別を、それと同じ人種によるランク付けだと思っているようだが、人種の坩堝アメリカで起こっているアジア人差別は、違いに慣れている中での差別であり、外見より、むしろレッテルによる。

アメリカの黒人差別は、奴隷制によるアメリカ自身の根深い背景があるが、そのほかの人種について、白人社会には特段の概念がないようだ。同じ白人でも出自によって露骨に差別するし、黄色人種はわけの分からない不気味な存在として、遠ざける。
欧州人は黄色人種の先住民を駆逐してアメリカを建国したが、もともと欧州は高度文明の中華帝国と交易したこと、遊牧民に攻め込まれたことで、潜在的な怖れがある。
したがって、一度、敵意を持つと、単なる敵ではなく、悪魔や鬼と見なすようになる。
その最たるものが、日系人の収容所送りであり、原子爆弾の投下だ。
今起こっているアジア人差別は、差別されてきた人々の憂さ晴らしの側面もあるが、欧米文化のアジアに対する不可解さ不気味さが、「チャイナウイルス」のレッテルで突然、浮かび上がったのだろう。

差別は自分の中にある
もともと、差別は無知から始まる。自己防衛のために自他を分けようとする生物の習性は、誰にでもあるが、相手を知り、相手の視点に立てば、差別の必要を感じなくなる。
だから、中には差別感情を克服するために、対象を理解しようとして、返って妙に相手の側に立つ人が出てくる。それが知性の実践のような気がするのだろうが、実はそれも、単なる差別意識の裏返しに過ぎない。
ペットに贅沢をさせる人は、ペットが決して自分より上だとは思っていないから、贅沢を「させてあげたい」と思い、いつしかその自己投影の奴隷になる。

客観性が無く、生物の習性に忠実な人ほど排他的だから、他者との共存に不満があると「差別された」と感じる。相手の視点を考えられないから、自分の感情だけで判断をする。
他者と対等に共存した経験が無いと、上下関係の差別意識しか持てない。「差別されている」と思う上下意識の中にこそ、差別意識がある。

「世界初」は特記すべきニュースだが、「アジア初」は比較だ。世界との比較、アジアとの比較であり、アジア人は欧米人にかなわない、負けている、差別されていると思ってきたコンプレックスが何の疑いもなく表出されて、何ともやるせない悲しみが漂う。
何の能書きもなく、「松山英樹ついに制覇」と個人を讃えることはできないのだろうか。