正確な記憶ではないが、以前、テレビの日韓関係討論番組で、日本の学生が、過去の歴史について質問した。
そのとたん、映画監督の催洋一が、「そんなことも知らずに、日韓関係を語る資格は無い!」と怒鳴りつけ、学生は沈黙してしまった。
すると、日本の大学教授が、顔色を変え怒りを押さえながら、「彼は何も知らないことを恥じながらもそれを知ろうとしている。資格が無いと言っては、何も解決しないんじゃないですか」と、抗議した。
近頃、何かに付け、討論、議論の場で、この「資格が無い」という言葉を聞く。
あの時の大学教授と全く同じことを言いたくなる。
何かを言ったりしたりする時、「資格」の有無を求めるのは、東洋の儒教思想であり、格付けを好むのも、同じ価値観による。
東洋人が、学業成績が良いのも、科挙に始まる、資格取得の目標主義があるからだ。
学問は本来、好奇心と自己研鑽のためにあり、師弟ともに学ぶアカデミーのものであったが、科挙のような功利のためのシステムが生まれたことで、東洋人は学問を資格取得の道具と考えるようになり、宦官になるための去勢と同じものにしてしまった。
進学のための勉強も、自己研鑽ではなく、受験突破の技術マスターと考えられている。
自己研鑽の結果の実力レベル向上ではなく、得点が目的だから、中身は空っぽでも、結果は高い。このことがようやく解ってきた欧米の大学では、東洋人学生の得点成績を割り引いて考えるようになった。
アメリカでは、結果だけを目的とする、中国人留学生のカンニングに手を焼き、呆れているが、学生は単に出身国の子にすぎない、子を見れば親が解る。
大成功した、中韓のパクリ立国は、まさに、目的主義の高得点であり、驚くべき成果を挙げた。
中国から習った日本も、合格だけを目的とする受験勉強が学問と取り違えられ、優秀な成績を収めても、舛添のような人間ばかりが、指導層に溢れることになった。
自分が得た立場を最大限利用して他を排斥し、利権に食らいつき、社会システムの階級を登ることだけしか考えない。役人はもとより、団体や企業の役員に至るまで、「優秀人材」の弊害で覆われている。
品格、国格、品性など、格付けをしたがるムードが国中に溢れ、何事にも資質ではなく、資格を求め、格の無い者に、ものを言わせない雰囲気になり、国全体の柔軟性が失われている。
今中国が、海洋進出に抗議する国に対し、「資格が無い」の論法で罵倒することに、われわれは呆れるばかりだが、実は、日本も近頃は、何かと言えば「資格が無い」と言い出す、問答無用の思考停止が横行している。
自分の基準に合わない者を「資格が無い」と言い合えば、何の対話も始まらず、行き着くところは力ずくしかない。