魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

非合理観(1)

2016年06月08日 | 占いばなし

占い視点
このブログで言う「占いの視点」とは、一般には独断と偏見と言われるものだ。
占いには科学的裏付けはない。経験と勘を術に高め、体感的に真を見抜くのが占いの目指すところで、科学とは真反対の立場にある。
よく、占いは統計学のようなものと考える人がいるが、これは科学時代の教育を受けた人の見方だ。確かに、最初の段階ではそのような入り方をするが、目指すところは、データや統計によらない認識力を持つことだ。

物事を理解するとき、測ったり検査したり、分析して、その性質を定義するのではなく、パッと見て、一言聞いて、本質を察知する。
近頃、人工知能開発の過程で、人間の脳が如何に優れているかが再認識されている。
人間は犬と猫の違いを、簡単に識別するが、これを人工知能にさせようとすると、膨大な情報を経験(蓄積)させなければならない。

しかし、人工知能はスピードと容量でそれをカバーし、遠からず、人間の能力を超える。当然、市販本に解説されている程度の占いなら、朝飯前でこなすようになるだろう。
問題はその先だ。
人間より遙かに優れた、認識と判断能力を持つようになる人工知能でも、人間を超えられないものがある。それは、欲望だ。
人工知能に「意図的に」欲望を植え付けない限り、人工知能は人間の優秀なアシスタントを超えることはない。

人間は生命体として、存続の欲望を持っている。これは単に、個体が自分の生命を守ることではなく、「存続」そのものに対する欲望だ。自分の遺伝子の存続であり、類としての存続であり、さらにそれ以上に、DNAはDNA自身の維持、発展、存続の欲望と方向性を持っている。DNAにとって、人間を含むあらゆる生命は、その道具でしかない。

その、DNAに支配された人間の能力は人知を越えている。この場合の人知とは、人工知能をつくり出す、人間の表面的な能力のことであり、人工知能はその能力に並ぶ事はできても、DNAの支配力を超えることはない。
つまり、人間の総合能力の背後にはDNAの意志があり、人間自身も知らない力、いわゆる「フォース」のような力を秘めている。