魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

非合理観(2)

2016年06月09日 | 占いばなし

データや論理による認識は、それを定める人知の世界であり、占いの目指す視点は、それとは異なる、人間の総合力による認識だ。
目で見える範囲を超え、目を閉じて察知するもの、多くのデータや論理的裏付けが無くても真相を見抜く力。それが、占いの目指すところだ。

合理性の怪しさ
たとえば、今話題の「桝添問題」は、誰でも黒だと認識する。それでも、桝添都知事は、「精査する」と言い続け、元検事の弁護士による調査結果を発表した。

事実を詳細に並べれば、そのデータはどの様にも評価できる。しかし、この事件の本質が桝添知事の背任行為であることは誰でも解る。経験的な認識力が万民にはある。
にもかかわらず、「精査」に拘ったのは、現代の科学的方法によれば、感覚的な原始常識は、対抗できないからだ。

データと論理で、事実を積み重ね実証していくのが科学的手法の優れたところだが、データの取捨、構成などを、一つ間違えると、虚構の真実を成立させる力も持っている。
桝添知事が精査にこだわったのは、データを分解し再構成すれば、別の定義が可能になる事を知っているからだ。
事故を起こした自動車を分解すれば、大量の部品になり、それは自動車事故ではなくなる。

今回の調査結果で何度も繰り返された、「違法ではないが不適切」とは、一つ一つの事柄に分解すれば、どれも事故原因ではないが、事故に関係したことは事実であると言っているわけで、どこを取っても事故の当事者ではないことにした。つまり、結果的に人は死んだが、事故は起こしていないと言っている。

司法判断が一般人の感覚と異なるのは、科学的精査を前提とする裁判の事実認定が、一般的な思い込みや感情による「事実らしきもの」と、違う次元で、事実を再構成するからだが、一体、どちらに価値があるのだろう。
料理は、様々な素材のトータルな結果として、一つの味になる。個々の素材を分析して、美味しさの理由を説明し、一つずつ順番に食べたら同じ味が出るだろうか。

本来、法とは絶対の摂理だが、人間社会での法とは、人間のための「定め」であり、もともと確かなものではない。(絶対の摂理は、人間にとっては残酷なものだ)
「定め」である法律の始まりは、万民の思いや感情の帰結するところを、要約し成文化したものだ。人の定めた法律そのものが、感情や思い込みに始まる。それを、分析判断する事は、合理的進歩に向かうように見えて、実は、法律の趣旨に逆らう事でもある。それが、判決に納得がいかない理由であり、法律の存在理由の毀損とも言える。

しかし、それでも、人間はその能力のおよぶ限り、より良く生きたいと願うから、ルールを定め、それを改良しようと努力を続ける。その立法司法の過程で行われる分析判断には、非情な合理性がなければならない。この非情な合理と、人間の心情とに生ずるズレにつけ込むのが敏腕弁護士だ。
法律の趣旨から考えれば、当然、黒であるものも、分解してグレーにしてしまう。

有名な「ベニスの商人」で、契約書に書かれた文言の瑕疵を突き、「一滴の血も流してはならない」と、逆転させるのは、もともとの契約自体が、非人間的だったからであり、非人間的な契約に対して、非常識的な合理性で対抗したことに意味がある。
人の定める法律は、根本的に人間らしくあろうとすることだから、合理的かどうかより、人としてどうかが優先されなければならない。
何かと言えば国際政治学者を名乗る「頭の良い」桝添都知事だが、合理性の盲点を心得た小賢しいだけの、「個臭い精事学者」だ。