魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

非合理観(3)

2016年06月10日 | 占いばなし

占いの目は非情
占いは科学ではないから、合理性にはこだわらない。ときには意図的に合理を排除する。しかし、真相を見極めるためには、科学以上に非情でなければならない。科学的合理性を超える大局観は、絶対の真相との対峙だから、科学にも道徳にも背を向けている。

科学的に考えてあり得ないこと、人情、道徳から考えて許されないこと。そんなこととは関係なく存在するものを見ようとするのが、占いの視点だ。
しかし、これは反科学の立場でも道徳否定の立場でもない。
例えば、麻原の空中浮揚などは眼中にない。

科学で解明できないことは数多存在するが、人間が修行で飛んだり消えたりすることは、動物としての長い人間の歴史の中で、誰一人見た者も行った者もいない。もちろん伝説や神話はあるが、冷静に考えれば、全てフィクションだ。
つまり、フィクションを見抜くのもまた、占いの視点であり、一方で、それを証明する必要もない。

嘘が嘘であったことを証明しろというのは、韓国に盗み出された仏像の話のように、あるいは舛添知事の精査のように、無意味な空回りであり、真相の核心から遠い、枝葉末節の世界だ。
そうした空しい水掛論を避け、試行錯誤や整合性を超えるのが占いの視点だ。

合理よりも道理を求め、その道理も人間の道理を超えた、天然の摂理、太極から考える。
正確よりほどほどを考え、いい加減より厳しさを求める。つかみ所のない禅問答に聞こえるかも知れないが、事相の神髄は、そう簡単に人間の浅知恵や小賢しさで説明できないはずのものではなかろうか。