魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

遊び学校

2016年03月13日 | 日記・エッセイ・コラム

韓国の囲碁名人が人工知能に敗北した。
ちょうど、書きかけのままにしていた記事があったので追記する。

変な言い方かも知れないが、もう、子供は勉強なんかしなくても良い。
と言うのも、現在の学校で教えていることは、ほぼ記憶力だけに頼った能力養成で、記憶力が悪ければ創造力も発揮できない。
ところが、記憶して、それに基づいて処理する能力なら、コンピューターでこなせるようになり、人間は到底適わない。

さらに、今後、自分で考える人工知能が発達すると、知識や判断など、これまで子供に仕込んできた能力は、全部コンピューターが代わって出来るようになる。つまり、応用も含めて、受験戦争で、最も優秀な成績を収める生徒より優秀になる。
現在はまだ、東大受験に及ばないが、これは時間の問題だ。

これからの人間に求められる能力は、その優秀な処理能力を使いこなせる創造力だ。
もう、これまでのような学校は要らない。古代の戦争は肉体能力が物を言ったが、ミサイルを押す指に、能力の上下はない。
これと同様に、これからの時代に必要なのは、機器の動き方さえ解れば、それを使う哲学的判断力やヒラメキや創意の「人間力」だ。
車はメカニズムを知らなくても、様々な目的に使うことが出来るのだ。

コンピューターの発達に驚き、絶対に人間の能力を超えられないと言う人や、何時かコンピューターに支配されると恐れる人がいる。
確かに、現代人は文明の機器に支配されている面もある。正確な時計が刻む時間に追われたり、メールの返信をくれないと喧嘩になったりする。オートトレードで世界恐慌まで起こる。

しかし、これは人間自身の問題であって、誤った関わりかたをすれば、あらゆるものが災いの種になる。
人工知能はいずれ、あらゆる面で人間の能力を超えるだろう。だが、人間と機械には大きな違いがある。人間は生物であり、生命維持活動ゆえの「欲望」で動いている。

もちろん、人工知能も自己活動の維持能力を持つ。だから、「生きる」ための様々な能力を駆使することは出来るだろう。しかし、それは行為目的の大前提に、人間の要求を超えないことを設定しておけば良い。
ここで、多くのSF小説は、コンピューターが人間の要求を、哲学的に上回る要求と解釈して、人間に良かれと考え、人類を絶滅させたりする。この場合は、さらに、人類の善し悪しにかかわらずの存続を、目的化しておけば良いかも知れない。

それでも、コンピューター能力が、人類を上回り、人類を滅ぼしたり奴隷にするなら、これはもう世代交代として受け入れるしかないだろう。

だから、今から恐れて、コンピューターを拒否するより、あくまで上手く使いこなす覚悟の方が大切だ。
コンピューターを上回る人間の能力は、欲望から起こる想像力であり、想像力こそが機械を支配する創造力の源になる。

これからの時代は、人間を機械にする記憶力比べは要らない。アイデアやヒラメキ、人間性の理解力など、これまで特殊な能力と考えられていた芸術のような、いわゆる遊びの力が重要になる。まさに賢人の時代がやってくる。1~2世紀先かも知れないが。